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「ちゃんと言う」「ちゃんと聞く」でだいたいのことは解決する

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この間、会社員の友人から聞いた話です。よくある話っちゃよくある話かもしれないですが、実際に聞くとウケますね。友人が会社で、新入社員の人にコピーを依頼したそうです。

そしたらコピーされた書類が机の上に置かれていたそうなんですが、何枚もある資料がホチキス留めされずの状態で机に置かれていたと。

「なんでホチキスで留めないの?」

と確認をしたら

「コピーを依頼されたので、コピーしておきました。」

と返事が来たそうです。

マーーージかーーー!とおっさんは驚きました。

頼まれごとを作業で返すか仕事で返すか

これをその新入社員の子と同じくらいの歳の子に話したら

「わかります。その気持ち。」

と言うので、てっきりぼくは自分と同じ心境だと思っていました。

ですがよくよく話を聞くと

「ホチキスも必要ならホチキスで留めてねって言ってほしいですよ。」

と返事が。

マーーージかーーー!!!(2回目)

「え?そういうものか?」

って聞き返しました。

「だって、大切な書類ならホチキスで穴開けたらダメかなとか、止まってない方が見やすいかなって。」

とその子は続きを話し始めました。

「ほうほう。確かに。」

「だから自分が余計なことしたら嫌だなって思っちゃいます。迷惑かけちゃうって思うし。」

「なるほど。クリップでまとめたり、クリアファイルに入れるって言う発想は?」

「いや、だからわからないんです。ファイルも邪魔かもしれないし。言われた通りやるからちゃんと言って欲しい。」

なんかそれっぽく言ってますが、ぼくからしたら言い訳にしか聞こえませんでした。

言ってることはわからなくもないですが、それってあくまで自分の推測で、人の気持ちに立ってるフリじゃねえか?って。

言っていることもわからなくもないし、確かに言葉が足りなかったのかもしれない。

ですが、もしぼくが同じことされたら

「あ、この程度なんだな。仕事に対して。」と思ってしまいます。

「相手の言葉が足りないから、確認もせず、自分もこの程度で」と言っているのだと思います。

結局相手のせいにして、自分はやっている風というか。

これまでも人にそうして来たんだろうな〜っていう感じが読み取れてしまいます。

大切な人へ届けていますか?

今や書く人は少ないかもしれませんが、好きな人へのラブレターだったらどうでしょうか?

この流れだと

「書いたことないんでわかりません。」

って言われてしまいそうなので、書くとしたら、と言う想定でお願いします。

「きれいに折った方が見た目がいいな。」

「かわいい封筒に入ってたらもっといいな。」

って考えると思います。

ラブレターもらう前に

「こんなラブレターにしてね、読みやすいから。」

って言わないですよね?

自分が思う心配りで、なるべく相手にとって気持ちが良くて、自分の想いが届くような配慮を施すと思います。

そういうと

「そりゃラブレターだったらね。」

と言われるかもしれません。

ではなんで、同じような心配りが仕事ではできないんでしょうか?

本気で大切だと思ってない。

ぼくはそう感じます。

だから「あ、その程度なのね。」と。

もちろんラブレターと書類では、届ける趣旨は違います。

でも、「心を込める」という点では同じです。

頼まれたコピーをすることも大切な仕事の一つ。

仕事って、自分の作業で人を喜ばせて初めて仕事です。

例えそれが直接お金に変わらなくても。

人にしかできないことと機会でもできること

頼まれごとを「作業」で返してくるうちは、ぼくはその人のことは心から信用はできません。

「作業」で片付ける人を、大切なお客さんの前には出せないし、相談しようにもしにくいです。

「私だって一生懸命なんです。」

と感じる人もいるかもしれませんが、一生懸命かどうか、頑張っているかどうかはどうでもよくて、というか、そんなのは最低条件であって、価値を人に届けることができなかったら、それこそその「作業」はロボットにやらせればいいわけです。

この先、ロボットが進化して人の仕事がどんどんなくなっていくと言われていますが、人を喜ばすことはロボットにはできません。

言われたことしかやらないのであれば、その役割はロボットで代用できます。

どれだけテクノロジーが進化しても、人にしかできないことって必ずあります。

むしろテクノロジーの進化で機械化・効率化が進むと言われているからこそ、人にしかできないことに新たな価値が生まれやすくもなります。

コミュニケーションの価値

ロボットにできなくて人にできることの最大の強みは、コミュニケーションです。

今回の友人の件も、どっちがいい悪いではなく、日頃からのコミュニケーションでもっと結果は違ったのかなと。

まぁ部外者だし聞いただけの話なので、なんとも言えませんが。

ただ、コミュニケーションの不足は、社会全体のあらゆる場面で感じます。

「言った」「聞いてない」

「聞いた」「言ってない」

そして、最初にも書いたように「余分ことをしたくない」という、自分一人の判断。

いきなり全部は無理だし、言いたいことをハッキリ言うためにコミュニケーションを取ろうにも、信頼関係はあると思います

ぼくは、関わる大学生が迷わないように、何かを手伝ってもらう時の基準は「いいと思ったことは全部やれ」と伝えています。

実際に学校建設中も、いろんな人にレンガを任せたり、ペンキ塗ってもらったり、見える部分の大事な作業をたくさん任せました。

「よくあそこまで任せたね。」と言われたこともありましたが、それでちょっとくらい歪もうが、どうなろうが、自分が良ければいいと思えたし、何より参加したみんなだって「曲がらないように」「歪まないように」って考えるはずなんです。本気だから。

やる前から「曲げるなよ」って言ったらビビってやれないし、どれだけ注意したって曲がるときは曲がる。

だったら曲がらないようにやる方法を教えたり、見ていたり、曲がった時の直しを一緒にやれば済むことなので、思い切ってやって欲しいなって思っていました。

すごい些細なことかもしれないけど、任せることで生まれる責任感と信頼もあるのだと、自分で感じています。

責任感を持って取り組んでもらえたことで、信頼が築けたから、今でも一緒に笑ってご飯が食べられる人が多いんだろうなって。

特に学校建設の場は、自分も含めて初心者多かったし、みんな自信持ってやれることばかりではなかったです。

「考えたらわかるだろ」がもはや通用しないのは事実です。

だから「伝え方」は工夫しなくてはいけないし、伝える側・聞く側のどっちかが心を配ればいいと言うことではありません。

正しく伝えること、いろんな角度から考えることが双方に求められるし、お互いが責任を持つことができたら、機械なんか入れない方が、現場は賑わっていくのかもしれません。

ぼくはいくつになってもそういう心配りを忘れずできる大人の一人でありたいし、ぼくと関わった子達から、そんなことを大事にできる子達を多く排出したいと思っています。

何かここで学びたい!とピンと来た方いましたら、ご連絡お待ちしています。

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