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生きる力を育むことと学校で勉強する意味について

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勉強する意味が全くもってわからなかった学生時代を経て、大学在学中にぼくは公立高校の教員を志しました。

「学校はもっとおもしろい場所であるべきだ」という考えのもと、いずれ未来を担っていく若者がぼくのように勉強する勉強する意味を失わないで済むように、学ぶ意味を適切に伝えることができる大人の1人であるために。

常勤講師として務めた4年間。

ぼくは「つまらない大人になりたくない」という自分の意志に従った指導方法を貫きながらも、どこかで群衆の中の1人としてうまく振舞っているような感覚に陥ることがありました。

高校に入学したての頃、野球部の監督に最初に言われた「高校球児である前に正当な人間であれ」という言葉が、大人になってもぼくの中心には根付いていて、「教師である前に1人の人間として何ができるのか?」を模索していたのだと思います。

「伝えたいことが伝えられていないかもしれない」

そんな不安は、最終的に「正座」という誤った指導の形で子ども達へと届き、ぼくは教員を辞めることを決意しました。

学ぶ意味がわからなかった子どもは、大人になってもきちんと伝えることができませんでした。

あなたは、子ども達に勉強する意味・学校へ行く意味をきちんと伝えることができますか?

学校教育を通じて学ぶ意味がわからなかった学生時代

学校教育を通じて学ぶことって何だと思いますか?

x軸とかy軸とか、元素記号とか、紫式部が何を考えていたかとか。

ぼくにとっては本当にどうでもよかった。

どうでもよかったから、学ぶ意志すら湧きもしませんでした。

「こんなこと学んで将来どうなるんだろう。」

そんな心の声は、完全に言葉として漏れるほど彷徨っていました。

もし、今同じような考えを抱く生徒達がいたら、その意味を適切に伝えられる大人はその近くにどのくらいいるんでしょうか?

学校教育の行き着くところ

学校教育を行う上で「生きる力を育む」と言うことが教育界ではよく言われています。

では、「生きる力とは何か?」を説明できる大人はどのくらいいるのでしょうか?

生きる力を育むのですから、学校教育の究極的目的は「命を守ること」です。

どんな困難があっても生き抜く力を身につけるために、身を守る方法を安全に学ぶ場所。

それが学校です。

生きる力を構成する要因と土台にあるもの

文部科学省が発刊している「学習指導要領」によると、生きる力とは「知・徳・体」と呼ばれる要素で構成されており、その三大要素を支える土台として自立があります。

これを前提に話をしていきます。

基本的な知識(学力)を身につけるための知育

一般的に勉強と呼ばれるものは、各科目の特性に応じて一般的な基礎知識を身につけるためにあります。

基礎学力を身につけることで、ぼくらはあらゆる課題を解決するための「想像力」を養うことができます。

先述したx軸とかy軸とか、そういう科目としての知識が直接的に生きることは少ないとしても、答えのない「生きる」ということへに際して降りかかる課題は自分たちの力で解決していかなくてはいけないのです。

人間性を高める徳育

小中学校では「道徳」という科目で授業を受けることもある徳育ですが、学校という集団生活を通じて学ぶことでもあり、科目としては測りきれない要因になっています。

また、日本人にはあまり馴染みのない「宗教」も似たような要因があると考えられます。(この辺りは長くなるので後述)

自分の体を思うように動かすための体育

体力を高めること、自分の体を思うように動かすことを目的として行われる体育は、生きることの母体でもある自身の身体に関する教育です。

運動が得意ということだけでなく、健康に関する知識と教養を身につけ健やかに過ごすための基礎を養わなくては、生きていくことは容易ではありません。

これらを支える「自立」とは?

「自立」とはどのようなことを定義するのでしょうか?

生きる力同様、自立ということに関しても構成要因があります。

思考力・想像力

人間が人間である理由の一つです。

我々人間には「想像力」という不変の資源が生まれつき備わっています。

この想像力をいかに働かせるかで、絶望することも希望を持つこともできるのです。

判断力・決断力

考えたこと、想像したことが正しいのかどうか、他の選択肢と比べてどうか、といった具合に物事を判断して決断する力のことです。

想像の段階で「恐れ」や「不安」が先行すれば、決めたり選んだりすることも躊躇しますし、逆に「希望」が見いだせれば自信を持って選び、決めることができます。

実行力・実践力

選択して決めたことを実践する力のことです。

考えただけでは物事は何も進んでいません。

受容力

実践したことがいかなる結果になったとしても、それを受け入れる力を持っていなければその先へは進めません。

「いい経験」「悪い経験」ということではなく、そこにあるのはただの事実です。

その事実を自分の中で「いいもの」として受け入れるか、「悪いもの」として受け入れるかで同じことをしても次の一歩は大きく変わってきます。

責任力

責任力という言葉が正しいかどうかは置いておいて、自分が実践した結果の事実に対して責任を取れるかどうか?ということです。

人間は責任が取れる範囲の行動でしか動けません。

個人的な意見ですが、現代の世の中は責任の所在が不明確すぎることが課題の一つでもあって、責任逃れをしたがる大人の姿が、子ども達の挑戦心を阻害していると感じます。

失敗することを悪とする風潮の中で、一回失敗すると立ち直れないくらい首位からバッシングされる世の中。

そして、バッシングする者の多くは挑戦すらしてこなかった保守的な人たちです。

やってもいないくせに知っているかの口調で、失敗したものを叩く。

そんなつまらない世の中だから、新しいアイディアも挑戦的なアクションも起きにくいのだと思います。

学校で学ぶ勉強は何を教えてくれるのか?

学校で教わる勉強にはどんな要素が詰まっているのでしょう?

学生時代にこれがわかっていれば、もう少し勉強への意識や取り組みも違ったのかもしれません。

「お前は見られている」というのが宗教の教え

「宗教」というものを学ぶ機会は多くないと思いますが、何かを信仰するということは信じる対象物に対して嘘をつかない、ということでもあります。

個人的にぼくは「野球の神様」という存在を大切にしていて、自分が好きで行っている野球への取り組みに嘘があれば、ピンチの時に神様は手助けをしてくれないと思っています。

関連記事:何かあってから縋り始めるくらいなら、ぼくは最初から素直に大人の話を聞く

この考え方は、夢中になる対象が野球以外のものであっても通ずる部分があると思っていて、自分が生きていく上で手抜きをしないための軸にもなっています。

ちなみにぼくは無宗教ですが。

「見られていなくても」というのが道徳の教え

信仰の対象に見られている、という意識を持って生きるのが宗教ですが、見られていなくても変わらない生き方を追求するのが道徳心です。

別に神様がどうこうではなく、「人からよく思われるからやる」とか「人が見ていないときは態度が悪い」と言った表裏のある人間になるなってことです。

監督が見ているから練習を手抜きしないってやつは、大事な場面で必ずビビります。

それは取り組みに対して嘘があるから。

サボりたいなら、誰に見られていようがサボっていた方が自分の意志に従っているので、ある意味芯のある人間になれるのかもしれません。

「見えているものは何か?」を証明するのが科学(理科)

今ぼくらの目の前にあるものが、どうして存在しているのか?どのような理由で成り立っているのか?と言った課題を考えるための教育的要素が科学です。

最近になってから思ったのですが、科学やこの後話す数学的要素は「デザイン(課題解決)」に似ているなと思うのです。

関連記事:デザインすることは社会問題を解決すること

目の前のことには必ず理由が存在し、その理由が希薄なものは図らずとも永続性は難しい。

「見えないものを見えるようにする」のが数学

世の中にある目に見えない課題。

これらを解決するためには、自身の想像力をフルに使い、知識と経験を交えて仮説を立てあらゆるアクションを起こすことに繋がります。

「こうしたらもっとよくなるのではないか?」

という発想は、これまでの人生で培ってきた「公式のようなもの」を元に思考が巡り、その公式を多く持っているということは、それだけ選択肢が広がるということ。

ただし、答えのある数学とは異なり、どうなるかわからないのが人生なので、正しいと思ったことが思い通りの結果になることばかりでもないですが、アクション(行動)の源は想像力から来ているのです。

「見えるとしたならば」というのが文学

生きていく上で必要な人とのコミュニケーション能力。

相手が抱いている思考や感情を読み取る能力は、人が1人で生きていけない以上必要な能力でもあります

文学だけでなく、学校というものが集団生活で行われるのは効率化だけでなく、集団の中の自分という人間を形成する目的もあります。

あらゆる要素を複合して学ぶことができる

学校は社会の縮図と言われるように、ここで例に出したこと以外にも多くの要素が複数絡み合って成り立っています。

例えば「ものを大切に扱う」という道徳心は、「動いたり感情のないものを大切にすることができなければ、動く人の感情はとても理解できない」と言った具合に、文学的要素も含まれています。

歴史とか古典は、歴史が大きく動こうとしている時に、なぜその国は衰退したのか?なぜ争いは起きたのか?なぜ部下に裏切られたのか?と言った具合に、現代でも考えなくてはいけない人と人の関係性や衝突の理由を教えてくれます。

年号を覚えるよりよっぽど大切な要素です。

「歴史は繰り返す」と言われますが、これだけぼくらは過去の争いを見て来ているはずなのに、この時代ですら今だに人を憎み、争い、蹴落とし合う瞬間があります。

まとめ

長くなって来たので、そろそろまとめに入ります

ぼくらは「学校教育」で学んだことを、どのくらい実生活の中で生かし、また後世に伝えることができるのでしょうか?

教育を行うことは親や先生たちだけではありません。

地域や社会全体で、人が人を育んでいくということが少しずつ薄れて行っています。

途中にも書いたように「責任の所在が不明確」な世の中の仕組みと、責任を取りたがらない大人の姿が、今の世の中を構成しているとするならば、ぼくら大人がどんな生き方をするかで未来は大きく変えることができます。

たった1人で生きていることはないからこそ、それぞれが責任ある行動をとれば大きな声を出さなくても、周囲に良い影響を与えることができると思うのです。

子どもはいつの時代も大人の背中を見て育つからこそ、ぼくはどこでどんな仕事をしようが子どもたちに胸張ることができない生き方はしたくないです。

完璧な人間なんて存在しないし、完璧を目指すことそのものが儚いことだとも思います。

ですが、自分を高めることだけは、この先どれだけ歳を重ねても忘れたくないです。

せっかく思考や言語を持って、人として生まれたのだから。

誰もが持っている思考と言語は、少しでも人を明るくできる使い方をしていきたいと思っています。

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