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コラム WORLD INFO 生きること

なぜ今、若者は旅に出たがるのか?を教育的背景から考えてみた

投稿日:

カンボジアに小学校を建てた手前、「旅と教育」ということを、ちょっと深く考えてみました。

 

単純に一筋縄ってわけでもないし、一概に言える問題でもないのでしょうが、一考えとしてまとめておこうと思います。

 





まず本題を話す前に、おもしろい仮説に出会いました。

 

ぼくら人間が持つ「意識」というものは、主体的に得られるものではなく、目の前の物事(刺激)に対して生まれた感情や想い(反応)を、後から意味付けしているのにすぎない。という仮説です。

 

これを専門的には「受動意識仮説」というそうですが、そんな難しい言葉は置いておいて。

 

感情を処理する思考の差

ある物事に対して、感情や想いを抱くというのは人間誰しもです。

 

「嬉しい」とか「悲しい」とか。

 

その感情を、その後どうやって処理しているのかによって、人格が形成されていきます。

 

例えば「アンコールワットを見る」という刺激に対して、「何らかの感情や想い」という反応が起きます。

 

その抱いた感情を処理するために「思考」が働き、その結果、「言葉」が生まれます。

 

思考とは自分の視点そのものです。

「何を見て、何を感じて、どう考えているか」

 

働いた思考が浅ければ、言葉も浅くて軽いものになるし、逆に思考が深ければ、言葉も深みがあって重いものになる。

 

要は物事の上っ面しか捉えていない視点からの発言は、決して重みや深みは生まれないということです。

 

また、このような過程によって生まれた言葉の重い軽い、深い浅いを判断基準に、その言葉を聞いた人は、話した人の人格を評価してしまうそうです。勝手に。

 

語彙力や表現の上手い下手にあまり影響はなく、言葉の重みや軽さが大事らしいです。

 

どれだけ口がうまくても、言葉に重みがないチャラ男に信頼がないのと同じことのように。

 

もしぼくが、アンコールワットの感想を聞かれた答えとして

「すごかった!でっかくてやばい」

と答えたらどうでしょうか?

ぼくに対する見方はずいぶんと下がると思います。

 

例え、ぼくがまじめにスーツを着て、熱意を持って同じことを言ったとしても。

 

というより、真面目な身だしなみであればあるほど、「この人は何を学んできたんだろう?」って呆れられるかもしれないですね。

 

才能の差は関係ない

この思考力の差は、才能などによるものではなく「学び、知識、出会い、経験」などに基づくものから来ています。

 

これらの要素を元に、いろんなことを想像し、課題に対する解決策であったり、傾向や対策にも繋がっていくのだと考えられています。

 

もしこの想像力が乏しかったりすると、奪いあったり、争い合ったり、殺し合ったりがもっと激化するかもしれません。

 

そうならないために、ぼくら人間は感情や欲望のコントロールをしています。

 

そして、ぼくら日本人の多くはコントロールする方法を学ぶ機会に恵まれています。

 

それが教育の機会です。

 

学校は「学び、知識、出会い、経験」が詰まった宝島

これらの要素をまとめて得ることができる場が、学校なのだと思うわけです。

 

学校という枠の中には多くの出会いがあり、いろんなジャンルの学びがあり、知識を得ることができて、様々な経験をしていきます。

 

ちょっと話が逸れますが、ぼくは高校生の頃、学校へ行く意味がわかりませんでした。

 

X軸とかy軸とか、元素記号が何だとか、「ぜって〜こんなの覚えなくても楽しい人生送ってやるよ」って言い切っていました。

 

確かに、習った公式とか、専門用語とか、それを直接使う機会って多くないかもしれません。

 

ですが、学校で教え込まれることには意味があるのです。

 

恥ずかしながら先生辞めてから、ようやくわかりました。

 

身の周りにはびこる問題を解決し、安全に生活をするために学校の勉強はあります。

 

そして、世の中の問題の多くは、何が問題なのか目に見えないものがほとんどです。

 

そのための勉強として例えば

今見えているものを証明するのが科学(理科)であって

見ようとするために考えるのが数学であって

もし見えたとするならばが文学(国語)だったりするわけです。

 

何かと何かを混ぜたらどうなる?

これを証明するための公式は?

この時主人公は何を思った?

 

考える中身が違うだけで、世の中にはいろんな角度から考えなくてはいけない課題が沢山あります。

 

 

その基礎を安全に学ぶことができるのが学校教育です。

 

「全ての教育は、命を守ることへつながっていないといけない。」と誰かが言っていた記憶があります。(すいません、曖昧で)

 

こう考えると、カンボジアの小学校のない村に小学校を建設したことにより、その村の子どもたちには、「学び、知識、経験、出会い」などを得ることができる場を提供できたといことになります。

 

なぜ旅にでたがるのか?

ではいよいよ話題を移して、なぜ今、日本の若者は旅に出たがるのか?という本題に入ります。

 

学校という場に通うことが、ほぼ当たり前である日本の世の中。

 

その中でなぜ人は旅に出るのでしょうか?

 

見たことない世界を見たいから?いろんな国や地域の人と交流したり異文化を体験したいから?

それとも

みんなやってるから?

 

ぼくなりにこれまで仮説を通じて考えられるのは、最初にアクションを起こした人のたちの動機は、学校(集団)内における「人間関係の希薄さ」と「教育内容の偏り」が要因の一つではないかと考えます。

 

同じ教室、同じ空間にいるのにコミュニケーションが上手にとれない。

とれないというより、本音が言えないとか、これを言ったらどうなるかを考えない、もしくは考えすぎによって生じる歪みが大きすぎるのということです。

 

いじめられたり、からかわれたり、仲間はずれにされないために自分を殺して、列からはみ出さないように意見を合わせて、そんな息苦しさが関係しているのではないでしょうか?

 

また、教育内容の偏りに関しては、変に学力重視というか、学歴社会の名残があるように感じます。

 

もちろん、学力が高ければ行きたい学校を選ぶ選択肢も増えるかもしれません。

 

それによって、将来の選択肢だって変わるかもしれません。

 

ですが、「イイガッコウ」「イイカイシャ」と呼ばれる場所に入って、将来の選択肢を広げたように見える人が、どれだけ幸せを感じているでしょうか?

 

逆にどんな理由であれ、進学を諦めたり、中卒・高卒で働いていても豊かな人生を送っている人だっています。

 

話せばわかるというか、どれだけ学歴あっても「考え浅いな〜」って人もいれば、「へ〜おもしろい考え方だね」ってうなずかされる人に学歴は関係ない気がします。

 

そして、その差は思考の深さなのだとも。

違和感を感じて飛びだしてみた

「人と同じ意見でいることが正しいわけじゃない」「学校で測られる学力だけが全てじゃない」

 

そう感じる人が時代の変化とともに増えてきて、ちょっとずつレールからはみ出す人、常識と呼ばれる道とは真逆の方へ走り出した人たちがいます。

 

少し前までだったら、「単位を落とさず大学を卒業して、就職を決めること」が正解だと思われがちだったのに、今や休学、留学は珍しいものではなくなっています。

その途中で、道を決めて退学までする人だっています。

 

世界一周だって、もはや何の特別感もないです。

 

その気になりさえすれば、誰でにでも行けるものだと、多くの人が証明してきました。

 

「何をしたらいいか」って話がしたいのではないです。「なんだっていい」んです。

 

ただ、「このままの自分じゃいけない」って感じた人たちが、自分の意思で続々飛び出しています。

 

その選択の一つに、旅を選ぶ人がいたと言うだけのことです。

 

学ぶことが「知識を詰め込むこと」に偏りすぎた結果、「何か違う」と違和感を感じる人が増えたのだと思います。

学校という本来楽しくなくてはいけない場が、息苦しくなって「ここじゃない」と違和感を感じる人が増えているのだと思います。

 

これまで「学校」という枠組みの中で教えられるはずだったものが、今や、その枠を超えて出会いや体験を求めたり、学校では学べないことを学んだりと選択肢という道が広がっています。

「海外で出会った人とは、なんでも腹割って話せる。だってこの先会うこともないかもしれないから。」という開き直りがかえっていい関係を築いたりすることもあります。

 

日本の教育現場の批判でもないし、海外へ出ることが正解だということでもありません。

 

もっと足元を見据えなくてはいけないこともあります。

 

ですが、このような背景が、「学校」という枠組みを超えて海外へ目を向ける若者が増えた要因の一つだと思います。

 

そして、あくまでそれが珍しいと言われてしまうような時期から、考えて動いた人の行動は大変価値があると思います。

 

 

ですが!

 

旅へ出ること、海外でボランティアやインターンをすることも、これまでにはなかった出会いや体験を求めて、今や随分と多くの人が行くようになりましたが、もはやこの辺りも特別珍しいものでもなくなりました。

 

ただ、それと似たようなことをすればいいのかって思いだけで、考えもなく「旅へ出ること」が目標になっている人たちもいます。

 

というか、最近はその方が多い気がします。

 

 

ですが「このままじゃ違う」と考えて最初に動き始めた人は、もうすでに違う方向へ向かって走り出しています。

 

さて、ここからどうする若者よ。

 

変わってきた流れの先頭には、必ず流れを変えるきっかけを起こした人たちがいる。

 

その流れに乗っかったように旅をして、いつもと違うことをしていれば、自分も何かを成し遂げた気になっていたかもしれない。

 

旅することは素晴らしいことだとぼくも思う。

 

だけど、自分はその体験を語れるか?

聞いた話ではなく、自分が見てきた世界を。

感じたことではなく考えたことを。

 

これから先また違う流れが起きるまで、じっと待つのか?

それとも自分たちで新しい流れをつくるか。

 

別に海外に出ることが間違いではない。ただそれだけじゃ意味を持たない。

 

だからと言って

他の何か大きなことをしなくていい。

かっこいいことを探さなくていい。

独立しろってことでもない。

目立とうと思わなくても地味でいい。

 

ただ、「自分で考えること」はやめてはいけない。

 

考えずに流れを待っていたって、やる場所が、やることが変わるだけで、先にやった誰かの跡をなぞるだけかもしれない。

 

自分がどうしたいか。どうするべきか。

 

そんなことは、心の奥底に眠っている。

 

やりたいことがわからないのは、考えていない証拠。

 

考えたことは、必ず言葉になる。

 

言葉は思考の積み重ねだからこそ、もっと頭を使って考えてみる。

 

「頭を使って考える」ってどういうことか?

 

それは『とことん自分と会話をすること。』

 

目の前の物事に対して「嬉しい」とか「悲しい」で片付けず、複雑な自分の気持ちと向き合ってこそ、本当の言葉が滲み出てくる。

 

「すごい」「やばい」は何も言っていない。

 

自分は今何を考えているのか、どうしてそんなことを考えているのか。

 

そうやって丁寧に自分と向き合った先に、自分にしか見えない道が見えてくる。

 

その道をひたすらまっすぐ言ったらいい。

 

大丈夫。

 

人と違うことをすることが、特別なことじゃないってことも、多くの人が証明してくれている。

 

だから、その気にさえなれば、なんだってできる。

 

そして自由になんでもやれる時代だからこそ、他の諸外国にはあまりない、日本ならではの教育課程が今後大事になってくる。

 

それが「道徳」。

 

誰かが見てようといまいと、自分が正しいと思ったことをする、胸を張れる生き方をする。

 

それがきっと一番かっこいい生き方なんだと思う。

 

 

大事なことなのでもう一度。

 

言葉にできないのは、考えていない証拠。

 

あと、「すごい」と「やばい」は何も言っていない。

 

物事に対して「自分はどう見ているか?」この自分なりの哲学を大切に。

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カンボジアへお越しの際はぜひ!

普段は、世界遺産アンコールワットのある街カンボジアのシェムリアップで「たまり場」をつくっています。
こだわりのカレーとコーヒーを用意して、ブログ書いて生活しています。
シェムリアップへお越しの際は、ぜひ遊びに来てください。

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