数年前までは古代象形文字や何かの組織の秘密の暗号としか思えなかったクメール語が少しずつ読めるようになると楽しさ広がる。
いきなりクメール語読めるようにはならないけど、全く読めないと少し読めるは全然違う。同じように少し読めてもすげー読めるとは差がありすぎるので、学びに終わりはない。 pic.twitter.com/sxsrxfKRDB— 北川勇介@シェムリアップでこだわりのカレーとコーヒー (@yusukeworld_) 2018年9月28日
先日、見た目コテコテのアメリカ人がお店に来たのですが、片言の日本語を話すので「日本語勉強したんですか?」って聞いたら「日本に1ネンカン 住ンデタ ダケデス」と言っていました。
「なるほど〜」「だからか〜」って感じる人もいるかもしれませんが、1年間海外に住んでいるだけでは、その国の言語を話せるようにはなりません。
ぼくもカンボジアに来るようになって6年目ですが、そんなスラスラとクメール語が出てこないです。(情けない)
1年住んだだけで、その国の言葉が話せるって、とてつもなくすごいことです。
でも、それができている人がいるってことは、できない理由はないと思うんです。
ただ、やっていないだけ。
努力しているか?やっているつもりか?
別件ですが、先日、カンボジアのとあるローカル食堂で朝ごはんを食べていました。
すると、待ち合わせをしていたらしいカンボジア人が、遅れて来たもう一人のカンボジア人に対して「オハヨー!今日ハ何タベル?」「ドウシヨッカナー」って、日常会話の中で勉強をしようとしている姿を見ました。
その時、自分がクメール語を話せない理由がはっきりしました。
単純な努力不足。
やっているつもりになっているだけで、やっているにも値しないくらいのことでした。
そりゃやらなきゃ話せないだろって。
初めからできる人なんて
周囲には、すごい流暢にクメール語を話す日本人もいます。
でも彼らだって、最初からスラスラ話せたわけではなく、努力を積み重ねて来たからです。
決して特別ではない。
カンボジアに来たら、カンボジアに住むようになっただけで、みんなクメール語を話せるようにはなりません。
英語でありがとうは「サンキュー」、中国語なら「シェシェ」、スペイン語なら「グラシアス」みたいに、多くの人がわかるようなメジャーな外国語でもないからこそ、やっている人とやっていない人の差はより一層、超明確です。
できないのではなく、やっていない。
やりもしない内から、できもしないって言いたくないですね。
若いっていいねっていう人になりたくない
たまに「ゆーすけはまだ若いからいいね!」とか「俺もお前くらい若かったらな〜」とか言われます。
若ければ…なんなんでしょうか?
「歳をとったらもう無理だ」「努力は若くないとできない」とでも言うのなら、なぜ若い頃に努力しなかったんだろう?と思います。
ある程度の歳まで言ったら、努力できない、だから成長できないんだとしたら、そんな人生つまらなすぎる。
年齢のせいにして頑張らない。
そんな大人になりたくはない。
すごくオブラートに包んで言っても、クッソダセー!から。
諦めることを覚えたり、挑戦することを忘れたりすると年齢関係なく「老ける」んだと思います。
加齢は止められないかもしれない。
でも、成長を自分で止めることはないのだと言うことです。
まとめ
最近、周囲で日本語が話せる外国人に出会ったことで、自分の外国語習得に関する努力不足を痛感させられました。
海外に行くだけ、住むだけでは話せるようになりません。
自分で努力しないと、言語は身につかないし。
身につけなくても暮らして行くことはできるかもしれませんが、身につけた方がもっと楽しく暮らせる。
ぼくはそう思っているので、もう一度気を引き締め直して英語もクメール語も勉強しようと思いました。
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