2013年からカンボジアを中心に活動するようになったぼくは、2016年3月一つの小さな村に小学校を建設しました。
その活動を通じて、ぼくの肩書きは「カンボジアに小学校を建設するボランティアの人」というイメージが先行しているように思います。
確かに、カンボジアに小学校を建設するにあたって、利益は生み出していないどころか、支出だらけなのでボランティアといえばボランティアかもしれません。
それでも、一般的に抱く「ボランティア」のイメージとはかけ離れていると思います。
カンボジアはボランティアで成り立っている国というイメージが多いかもしれません。
実際にぼくが小学校を建設している最中も、「海外ボランティアに興味があって、カンボジアに来ました。」という人と多く出会いました。
それは決して悪いことではないし、自分の意思で行動を決め、実際に現地に足を運んだ行動は素晴らしいと思います。
その素晴らしい想いを抱く人が少なくないからこそ、そこにかけた時間やお金、労力を無駄にしないために、ぼくが考える「ボランティアに行く前に考えるべきこと」を、まとめておこうと思います。
関連記事:支援でもボランティアでもない関わり方を謳い続けるぼくが今あえて「ボランティア」を募集する理由
ボランティアの対象は貧しい人たちへの行いという誤解
海外ボランティアというと、「貧しい子どものために」みたいなイメージを持つことが少なくないと思います。
確かに、経済的、物質的、食料的、医療的など、支援を必要としている国や地域があり、そこで暮らしている人々がいることも確かです。
そして、その様な人たちのために人生を懸けて行動されている方達も多くいます。
しかし、それは一部の事実であって、全ての真実ではありません。
海外に出なくても僕らは日常の中で「ボランティア」をしている
「今度彼女とデートに行くんだけど、美味しいパスタが食べられるお店知ってる?」
「だったら、〇〇のパスタが美味しいよ!でもすごい行列だから早めに行くか、予約した方がいいかも!」
安易な様ですが、これもボランティアです。
自分が持っている情報を、持っていない人に何の見返りも無く伝えています。
「明日のバイト、ちょっと都合悪いんだけどシフト代わってもらえない?」
「いいよ!今度俺が急に都合悪くなった時頼むな!」
これもボランティアです。
自分が相手のためにその日にできることを行動しているからです。
自分に余力がなければ、誰も救えない
ではもし、美味しいパスタのお店を知らなかったらどうしますか?
食●ログで調べてみたり、る●ぶを読んでみたり。
相手のためになりたいと思ったなら時間を割いてでもやるかもしれません。
もし、シフトの交代を頼まれた日に、自分にデートが入っていたら・・・
彼女(彼氏)との約束を断ってでも、バイトに行くかもしれません。
バイト仲間の力になりたいと思ったら。
でもそれって、本当に相手のためでしょうか?
仮に相手のためだとしたら、無理して行動することって長続きするのでしょうか?
無理して誰かのために力を使おうとしたことで、別の大切なものを失うかもしれません。
自分も相手も知らない(できない)ことを手伝う時、自分に余力がなかったら決してできません。
相手の都合が悪い状況を何とかしてあげたくても、自分の約束を毎回破っていては信頼も無くなります。
たとえ1回できたとしても、同じ様な状況が繰り返し起こった時に、毎回できるかと聞かれれば、自分がしんどくなってしまいます。
誰かの力になりたいと思うならまずは自分が自立する
話を戻して海外ボランティア。
もし、あなたに余力がないのに「カンボジアでボランティアして」と言われたら、あなたはすぐに行けますか?
カンボジアの小学校建設費用全額公開。ぶっちゃけいくらかかったの?
「行ってみたい」「やってみたい」
そんな思いだけで行動して、お金がないのに借金してまで行く意味はありますか?
会社が忙しいのに、無理して休んでまで行く意味ありますか?
使えるお金があるならいいし、会社が休みを与えてくれるならいいと思います。
実際にぼくの周りにも
「参加するために、メッチャバイトしました」
「普段有給なるべく使わず、ここぞとばかりにとりました」
そう言って駆けつけてくれる人が何人もいます。
それも一度きりじゃ無く何度も。
まとめ
また、別で記事にしますが、ボランティア活動は、ボランティアする側の人間のためにあるのではありません。
参考記事:関わることへの覚悟はある?海外ボランティアは僕らの進路やキャリアのためにあるのではない
自分だけの達成感、SNSにアップするため、そんな理由で活動は存在しません。
関連記事:「カンボジアでボランティアしたい」って言うけど本当にボランティアしているのは誰
そして何より、自分が自立していなければ、現地に来たところで何もできないはずです。
ぼくだって何度も力不足を痛感しているし、一緒になって動いてくれている学生団体も、何度も涙を流したり、不完全燃焼で帰っていくことがあります。
それでもまた来るのは、自分の欲を満たすためでは無く、できることがあるなら力になりたい。
力になれる自分であるために、歴史を調べたり、国の現状を調べたり、言葉を覚えたり、事前に準備することだらけです。
「お手伝いに来ました〜!何やればいいか教えて下さい!」
みたいなスタンスは、時にありがた迷惑であって、何も手伝えていないどころか、足手まといになることさえあります。
一応、誤解のない様に言っておくと、ぼくのところに来てくれた人がそうってことが言いたいのではないです。
ただ、そんな雰囲気のある人はやんわり断る様にしています。
「子供と遊ぶため」
「農村部の生活を見るため」
そんな見世物のために、ボランティアはありえないということを認識して、それでも現地に向かおうと思うのであれば、自分なりの準備をしてみてください。
それがその国の歴史を学ぶことかもしれません。
その国の言葉や風習を予習しておくことかもしれません。
お友達の何か力になりたい時「手伝ってあげる」なんて考えませんよね?
そこには相手へのリスペクトがあるからです。
「手伝いたい」「力になりたい」と思うのであれば、現地へのリスペクトの心を持ちましょう。
相手を尊重し、自分の価値観を押し付けないことが、本当の思いやりだと思うからです。
「力になりたい」その想いを無駄にしないために、行く前にやるべきことを少し考えてみた方がいいし、ぼくもこれからも忘れずに生活させてもらいたいと思います。
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