キャリアがバレると「カンボジアの学校では運動会やらないんですか?」と言われますが今の所やりません。体育教えるって難しいです。間違えて教えると命や体に影響が出ることなので。娯楽ではやれません。
なぜカンボジアに建設した小学校で運動会を行わないのか?
運動嫌いの人が「運動の楽しさを伝えたい」って思えますか?
運動会って楽しいですよね。
子ども達だってやったら楽しいって言う子は多いと思います。
でもね、多分それはぼくが運動が好きだから言ってるだけで、もしぼくが運動嫌いな少年時代を過ごしていたら「カンボジアの子ども達にスポーツの楽しさを伝えたい!」なんて発想にはならないと思うんです。
運動が楽しいと感じる人と同じくらい、運動が嫌い・つまらないって子がいます。
これはぼくは体育教師になってものすごく痛感しました。別に苦手種目があったっていいじゃん!不得意でも自分のベストが出せればいいじゃんとか思ってたんですよ、割と大真面目に。
運動が嫌いな子へのアプローチ方法
でも運動へのコンプレックスは、思っている以上に根深いんです。
特にチーム戦とかは「足を引っ張りたく無い」「自分のせいで負けるのが嫌」とか、感じる子が多いです。
運動苦手な子達には「ドンマイ」の一言が皮肉に聞こえるときだってあるんです。
ミスしたくないから、参加しない、主体的に取り組もうとしない、嫌がる。
そういった運動の意義を見出せない子達、しかも言葉が通じにくい子ども達には何を、どうやって、伝えますか?
ぼくにはまだ、その糸口がわかりません。
「将来的に運動を好きにも得意にもならなくてもいい。ただ俺の体育の授業はつまらないとは言わせないから」
そうやって言い続けた言葉の通じる日本の教育現場すらも、そんなの簡単じゃなかったんです。
運動嫌いな子を時間的に拘束して炎天下に連れ出してまで、伝えられることがまだないんです。
運動会を実施した『出口』が、今のところ全く見えないからです。
カンボジアに建設した小学校で運動会をやるとするのなら
スポーツ(体育)の意義についての理解を深める
もともとの自分のキャリアの視点から少しだけ話すと、体育の授業の意義は主に2つです。
- 体力を高めること
- 自分の体を思い通り動かす能力を高めること
たまに言う「スポーツを通じての協調性を養う」というのは、集団競技の中でのことであって、よーいドンで走る徒競走に協調性を養う要素があるかと言うと、そこはぼくも疑問です。
ただ、スポーツという語源から考えると、元々は「娯楽」という意味もあり「楽しみながら身体を動かす」ということに関して言えば、運動会はとても楽しいものとして考えることもできるかもしれません。
なぜ運動会でないとダメなんですか?
カンボジアの小学校建設はやりたいからやるものじゃないという記事でも同じようなこと書いていますが、「楽しいからやる!」という理由だけでやれるならぼくはとっくにやってます。
「運動の楽しさを伝えること」が目的なら、別に運動会だなんて名前を引っ張ってこないでも、ヘトヘトになるまで子ども達と遊べばいいんです。
それは、学校帰りとかならいつでもできます。(子ども達が乗り気なら)
サッカーボールやバレーボールを持っていけば球技大会みたなことができるし、かけっこならいくらでもできます。
なんで運動会なんですか?日々ちょっとした体づくり運動とかミニゲームとかじゃダメなんですか?
そこからで十分じゃないですか?
そういった小さな積み重ねもせずいきなり運動会なんて、まるで実績作りの一環みたいじゃないですか。
運動会を開催するよりも大切なことは命を守る知識と技術
でも体育の楽しさはぼくも知ってるし、伝えられるもんなら伝えたい。
結局のところやらない1番の理由は、言葉や文化を超えて「伝える自信」がぼく自身にないからなのかもしれません。
それを伝えられるようになったら、やりたいなってことはもちろん考えています。
少なからず、長いこと体育会系の道で生きてきたわけだから。
ですが、運動会やるならまずはきちんと体育(スポーツ)というものを教えてからになるのかな?とかも考えてます。
そしてそのためには、主催する側に命を守るための知識と技術が求められます。
体育的行事の運営には、必ず安全配慮の面が必ず必要になるので、主催するってことはそれだけ安全指導も行わなくてはならないからです。
最悪命を落とすことだってあるので。
「痛い思いをした経験」だって運動離れの原因になると思いません?
それを事前に指導することも必要だってことです。
楽しいことを正しく教えるって難しい。先生になりたての時の苦労を思い出しました。
運動会をやりたいのはカンボジアの子ども達ですか?
自分の自己満で「こんなことやった」「あんなことやった」だけでいいなら、どんどんいろんなことやります。
でも、そんなことやるために建てた学校じゃないから、今はやりません。
スポーツの起源は娯楽だって途中書きましたが、娯楽だからって、テキトーに教えたら痛い目もみますよ。
「もし、自分が暮らす街に、言葉の通じない国の人がぞろぞろ来て、ウンドーカイをやるって言い出したら…」
「言葉が通じないから、何を注意したらいいかもわからないままケガをしてしまったら…」
もしそれが、自分や家族が暮らす街だったら。ぼくは嫌です。
このような命に関する想定を
「いやいや、そこまでしなくてもカンボジア人は大丈夫だよ」
と思うのであれば、ぼくはカンボジアにもカンボジア人にもリスペクトないから、なおさらやるべきではないと考えています。
カンボジアの小学校で運動会をやらないまとめ
先日も「今度運動会やるんでそのお知らせをお店に置かせてください。よかったら来てください」って言われました。
別に当事者達についてぼくは何も言う気はありません。本人達の意向があって、計画があって、目的があるのだろうから。
でも、やっぱり言葉が通じない国で、なんでこんなことが容易に進むのかがわからないです。
もちろん、言葉が通じない国も捉え方ひとつだとは思いますが、ことスポーツに関しては楽しさの裏には危険が潜むからこそ、適切な指導者がいないことには成り立たないと思うんです。
体育の先生って甘く見られがちな印象あるけど、命を守ることへは特に超絶シビアなんですよ。
本当に子ども達のことを思うなら、その子ども達をケガから守ること、子ども達の命を守ることをが「やりたいこと」よりも先に来るはずなので。
そんな感じで、ぼくがカンボジアに建設した小学校で運動会をやらない理由を書きました。
カンボジア語で伝えたいことが伝えられるようになって、日々の体育的指導が積み重なって、運動の楽しさや危なさのタネを蒔いた後にいろんな準備が整ったら、ぼくもやりますね。その時はちゃんと告知します。
▼体育の先生になった時に読んだ参考になる書籍
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