「運動が苦手でやりたくない」「学校の授業で体育をやる意味がわからない」「人前で失敗して恥ずかしい思いをしたのがトラウマ」と考えて、体育の授業が憂鬱になっていませんか?
もしくはあなた自身は得意だったけど、お子さんの苦手科目になっていて、体育の授業のある日の励まし方や必要性の伝え方に悩んでいたりしませんか?
この記事ではそう言った悩みに対して、高校での体育の指導経験と現代の課題を交えながら解説します。
この記事の目的は、運動が得意になってほしいとか体育の授業を好きになってほしいわけではありません。
「体育という、一見すると社会に出てから何の役にも立たなそうな科目の重要性を感じるきっかけにしてほしい」というただそれだけです。
疑問を感じたまま取り組んでも何も面白くないし、人は必要性を感じたことしか成長しないからです。
この記事がきっかけで体育の必要性を考え、自分や自分の周りの命を無駄にしない判断や行動が取れるようにな人が増えたら書いた甲斐があります。
しばし、お付き合いください。
体育の授業はなぜあるのか?
いきなり結論ですが「命を守るため」です。
大袈裟に聞こえるかもしれないですが、事実です。
体力がないと生き残れない
当たり前ですけど、体力がないと生き残れません。
自然界でも命を落とす確率が高いのは、だいたい体力のない弱い個体からです。
自分の命を守るためには「ああ疲れた…」と言ってしゃがみ込んでいる場合ではありません。
守り切るまで動き続ける体力が必要です。
スポーツ万能になる必要はないかもしれないけど、体力は貯金と同じくらい持っていて困るものではありません。
しっかり体力をつけましょう。
自分の身体を思ったように使うこと
バスケットのシュートが上手にできるから、将来何かの役に立つか?というと多くの人は役に立たないというと思います。
確かにバスケットのシュートが上手で将来役に立つのはバスケット関係の仕事をする人だけかもしれませんが、シュートを打つための体の使い方や「どうやったらゴールに入るか?」を考える力はもしかしたら命を守るかもしれません。
「課題に対して自分の頭で考えて、思った通りに自分の身体を動かす力」は紛れもなく大切な能力だからです。
バスケットのシュートはその能力をなるべく安全に、なるべく楽しみながら習得する手段の一つにすぎません。
体力があって思った通りに体が動くと守れるものが増える
敵が猛烈な勢いで迫って来たら、それより速く走らないといけない。
敵がずっと追いかけてくるなら、それより長く逃げ続けないといけない。
敵に攻撃されたら、上手に身を交わしたり受け身を取らないといけない。
敵から身をかわすためには、できるだけ遠くへ高くジャンプしたり、水の中を泳いだりしないといけないかもしれない。
思った通り体が動かないと、助かる命も助からないかもしれない。
敵はいつ来るかわからない
こういうと「どんな場面だよ」って思われるかもしれません。
ここでいう敵とは、危険動物かもしれないし、犯罪者かもしれない。
流れ落ちた土砂かもしれないし、迫りくる津波かもしれない。
敵の姿や特性に応じて、ぼくたちは瞬時の適切な判断で、自分の体を動かし自分や自分の近くの人の命を守らなくてはいけない。
テロはともかく、自然災害は毎年日本列島に甚大な被害をもたらしています。
巻き込まれた際に、生き残る体力がありますか?
平常心を保ちながら、正しい行動がとれますか?
このような視点から、すべての教育は命を守るために行われている必要がある、というのがぼくなりの持論です。
そして、体力を高めて体を思い通り動かす力を養う体育の授業は命を守ることに直結している。
体育の授業が必要ないと思っている人に気づいてほしいこと
体育の授業が必要ないと思っている人に気づいてほしいことがあります。
それは、自分で自分の命を守る意識です。
他人事が生命力を低下させる
ここまで読んで「だからと言って巻き込まれるとは限らない」と思う人もいるかもしれません。
他人事でいると、死にます。
万が一の事態というのは、直面してからでは遅いのです。
人は、できないことが急にはできません。
「火事場の馬鹿力ということわざがある」と言う人もいるかもしれませんが、それは火事場においての結果論で最初から期待できるものではないと思います。
それよりも日々できることを増やしておく方が賢明だと個人的には考えます。
他人や環境に依存していても始まらない
「学校教育にも問題はあるかもしれない」「体育の先生はそんなこと言っていなかった」と言う人もいるかもしれません。
確かにそういう部分もあるかもしれないけど、そんなこと言っていても未来はちっとも明るくなりません。
仮に学校教育があなたの思い通りにフィットするものに変わったとしたって、肝心な場面では守ってくれない。自分で気づいて自分でやるしかないんです。
そしてその場面は明日来るかもしれない。
動ける準備をしましょう。
余談:リスクを排除しても形を変えてやってくる
「暑い日に運動するのは危険だからやめさせろ」という考えもあるようですが、ぼくは考えながらやる絶好の場面だと思います。
暑い日に体育や部活をやめれば、その時間に熱中症で倒れる可能性は減ります。
しかし「暑いから会社休みます」を許してくれる会社ばかりではありません。
暑い日も寒い日も働いてくれている人たちのおかげで、世の中は回っています。
暑い日に体調が崩れても自分の体調の変化に自分で気づき、自分で対処するための知識や策を持っておかないといけない、と思うからです。
詳しくは「熱中症になるから暑い日に運動させるなという考えについて」という記事で書いています。
体育の授業は必要ないと思う人は英語はやっておこう
とは言っても「体育なんかやってられない」「いまいち必要性を感じられない」と言う人もいると思います。そんな人も英語はやっておきましょう。
「日本で暮らすんだから英語なんか一生使わない」と言っていた元体育の先生は今、海外で暮らしながら英語を使って働いています。そのくらい人生はどうなるかわかりません。体力と語学力はあるに越したことない。そして始めることには「早すぎる」も「遅すぎる」もありません。
体育の授業の必要性を伝えるために必要なこと
二つあります。
- 目的が命を守るためであることをはっきりと伝える
- できないことを恥ずかしいと思わせない雰囲気
目的をはっきりと伝える
多分ですが、大人の9割以上は「学校で勉強する意味は?」に対して、明確な答えを持っていないと思う。となると尚更「体育の意味」なんて誰も知らないし考えないはず。
教育は目的がわからないと受動的で一方通行なままです。主体的な学びに変えるためには目的を明確にすることであり、体育の目的の一番は何を差し置いても「命を守ること」であることを伝える必要があると考えます。
できないことを恥ずかしいと思わせない雰囲気
これ、よくないですよね。
先日こんなツイートをしました。
インスタとか見てると「知らないと恥ずかしい英語の表現」とか出てくるけど知らなかったり間違えることが恥ずかしいことじゃないと思うんだ。
自分が知ってるからって知らない人に対して「これ知らないなんて恥ずかしいよ」と自分の価値観押し付けられる方が恥ずかしいとぼくは思います。— 北川勇介 (@yusukeworld_) September 2, 2020
いい歳した大人がSNSで「知らないと恥ずかしい」とか「間違えたら恥ずかしい」という表現を使っているわけだから、子どもが人前で失敗を怖がる風潮は消えないだろうなと思います。
知らない・できないが恥ずかしいことではなく、同じミスをしないように工夫したり、できないことをできるように変える取り組みこそが尊いのでは?
大人が挑み続ける姿を見せ続けたら子どもは変わる。そう信じて、ぼくは今日も何かに挑もうと思います。口だけの評論家みたいな大人にはなりたくない。
まとめ
もう一度要点をまとめます。
- 体力は貯金と同じくらい持っていて損はない
- 自分の頭で考えて自分の体を思った通りに動かす力は命を守る確率を上げる
- 世の中の事象を他人事にして生命力を落とさない
ということが、今日言いたかったこと。
そのために体育の授業は大きな意味を持っていると思っています。
「体育は協調性を養う」とかも言うけど、まずは自分の安全を確保しないと人も危険に巻き込むので尊い命を守るためにやはり体育は重要。非常勤講師として北川勇介を呼びたくなりましたらお声掛けください。