幸せのカタチは人ぞれぞれって話

あるお父さんは、自分が学校で教育を受けることができなかったので、息子には同じ道を歩ませたくないと、家から出して学校に通える距離にある孤児院に子どもを預けています。そこでは三食きちんと与えられ、子どもは毎日学校に通うことができます。

また別のお父さんは、学校なんて行かなくても困ることはないし、生きていくために必要なことは教えることができると思っています。家族とは一緒にご飯を食べるもの。離れて暮らしてまで学校に行かなくてもいいと。その分、自給自足の中でも困らない生きていく術をきちんと伝えながら、三食家族揃ってご飯を食べています。

この話を聞いて、何を感じますか?どちらが正解ということではないです。

一つだけ言えるのは、どちらのお父さんも自分の子どものことを思っている。ということ。

最初に出て来るお父さんは「教育を受けさせること」が子どもを幸せにすると考えていて、後から出て来るお父さんは「家族が離れ離れにならないこと」が子どもを幸せにすることだと感じています。

最初のお父さんに「家族は揃って生活するものだ!」

とか

後のお父さんに「子どもに教育を受けさせないなんてとんでもない!」

そんなこと簡単に言えますか?

でも、きっと、これが、海外ボランティアとか国際支援とか呼ばれる活動の中で、平気で起こってしまっている事実の一つだとぼくは思っています。

価値観の押し付けとか、相手の気持ちを考えない言動とか。

人の為って書いた「偽り」の行為。

海外ボランティアとか国際支援に限らず、実は身近なところからこういったことは溢れています。

相手のためにって思ってしていたことが、実は相手の気持ちなんて考えていなくて、自分の「こうしたい」という思いだけで動いてしまうこと。

身近な例で言えば、恋愛とかそうかもしれませんね。

人と人だから、考え方の違いもあれば、やりたいことも違う。

相手のこと好きだから、一緒にいたいと思うのも当たり前のこと。

でも「一緒にいる」って何なんですかね?

距離?時間?頻度?

大切だから近くにいたい、離れたくない。

もちろんわかります。

大切だから長い時間電話していたい、切りたくない。

もちろんわかります。

大切だからたくさん会いたい、他の人とは会いたくない。

もちろんわかります。

あ、わかりますってのは、ぼくもそう!ってことではないですよ。(きっぱり)

そう思う気持ちもわかります〜ってこと。

でもうやっぱり考え方は人それぞれ違うから。

「付き合っているんだから、毎週デートをするものだ!」って言われたとしたら・・・

「いやだ、毎週じゃなくて毎日がいい!」

って人もいれば

「毎週じゃなくてもいいよ」

って人もいれば

「時間が合うなら会おうぜ」

っていろんな人がいます。

逆に自分が「毎日一緒にいたい」とか「一緒に住みたい」と思っていても、相手が必ずしも同じ事を願っているとは限りませんよね。

同じ「好き」という気持ちのはずなのに。

何ででしょう?

「毎日一緒にいたい」と思っている人が、相手から「毎日一緒にいない」という選択をされると、「自分のこともう好きじゃないんじゃないか」とか言い出すわけです。

対人関係に置ける幸せを考える場合、「自分が幸せでなくては、大切な人を幸せにできない」という考え方もあれば「大切な相手の幸せを感じることが自分の幸せ」と思う考え方もあると思います。

これもどっちが正解とか、どっちがいいってことじゃないと思います。

もっというと、相手の幸せを願う場合、相手が本当に幸せになるためなら、そこに自分が関わらなくても相手は幸せになれるケースだってあるんです。

自分が幸せになることが、相手を幸せにするとも限らないわけです。

難しいですね。

そう考えると「一緒にいる」って時間とか距離とか頻度とか、それだけじゃないと思うんです。

もちろん近くにいることを望む人たちが、近くにいれたらそれは幸せのカタチの一つだと思います。

それよりも大切なのは一緒にいたいと思う気持ちだとぼくは思うわけです。

離れているから気持ちがない。

連絡が少ないから気持ちがない。

デートが少ないから気持ちがない。

そんな物理的なことで人の気持ちはわかるのでしょうか?

寂しさとか虚しさからくるネガティブな感情で人を繋ぎ止めておく。

ぼくはそれよりも、まずは自分が自分自身の人生を生きているという感覚をしっかり持つ。

一人でも何とでもなるけど、この人(達)といたらもっといい。

そう言いたいわけです。

物理的なもののみで気持ちが測られるなら、ぼくは、みらいスクールの近くに住みこまないと、みらいスクールの子ども達のことを愛していないことになるんですかね?

自分の気持ちだけで幸せを感じていたら、もしロンデン村の人々が、子ども達を学校に通わすことを願っていなくても、学校を建てていたら、それは本当にロンデン村の為って言えるんですかね?

ぼくはブログでも講演でも「思ったことはすぐやれ!」って言ってきた。

でも、これだけじゃ言葉不足でした。

すんまへん。

『自分がしたいその行動が人を笑顔にするなら、すぐやれ!』

これからはこう言います。

この記事を読んでくれているあなたの「一緒にいたい」は本当に距離だけですか?

時間を多く共有することですか?

会う頻度だけですか?

ぼくは、気持ちで繋がる人たちと、ずっと一緒にいたいと思います。

たま〜にでも会えたなら、笑って飯が食える関係を、笑って酒が飲める関係を、

例え、近くにいなくても。

例え、困ってる時にすぐに駆けつけられなくても。

何かあったらすぐ言えよ。

俺ができることならするぞ。

そう言い合える人たちと一緒にいたいです。

だから、やっぱり学校に通わせたいお父さんに、子どもと一緒に暮らせとは言えないし。

一緒に暮らして幸せなお父さんに、学校行かせろとも言えないわけです。

その人が幸せの形が見えているなら。

その幸せを守るために、ぼくの力を必要としてくれるなら、やり方は一つじゃないし、正解も一つじゃない。

本当に大切だからこそ、大切に思える人の、大切な事や物をまで大切にできるのかもしれないし、それが一番自然なことかもしれないですね。

押し付けない、求めない、できることを手抜きせずやる。

大切なものを、自分のエゴだけで悲しませないようにしたいと思います。

みらいスクールの子ども達だけじゃなくて、関わってくれる人たちへも。

どこにいても、何をしてても、大切だって想っていられることが大切なのかなって。

それを伝えることができたら、それが伝わってきたら。

それでいいじゃないって感じたよって話です。

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