戸建て賃貸と車の地味な二拠点生活ブログ「ポテンヒット」

HPモンスターと言われたので頑張ることの基準について

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ちょっと乗り遅れた感がありますが、今更ながら労働についてぼくなりに言及してみたいと思います。

というのも、ぼくはよく「自分基準」で人に物事を押し付けて、「まだやれる」とか「甘ったれるな」って言ったり思ったりしてしまったことがあると気付いたからです。

しかし、先に弁解しておくとぼくの言いたいことというのは、自分の無力さからくる激励であって、「ぼくなんかができたんだから、みんなにはもっとできる可能性があるんだよ」ってことを伝えたかっただけなんです。

いや。本当に。

ぼくなんて、特別何か資格を持っているわけではないし、勉強ができるわけでもなければ、ずっとやってきた野球で勝負できるわけでもないんです。

へこたれるなんてダセーみたいな考え方

ぼくはずっと、自分が何も飛び抜けたものがない人だと思っていました。というか思っています。

でも、やり方次第で、どんなアンポンタンにもチャンスはあるとも思っています。

努力は裏切らない、とは言うけれどぼくは野球で努力しても一流にはなれなかった。

プロになるような人からしたら「努力が足りない」とか「そもそも努力の仕方が間違ってた」とか言われてしまうかもしれないけど。

でも、野球という夢中になれるものを通じて覚えた、努力する癖、本気になる癖は、夢中になれるジャンルが変わったってぼくの財産としてずっと生き続けているんです。

だから、野球の目標を叶えるために努力したことは何も無駄にはなっていないんです。

ましてや目標なんて大きければ大きいほど、ちょっとやそっとの頑張りだけで結果が出るとは思えないし、仮に一時的にうまく言っても、その状態を維持するためには、更に継続した頑張りが必要になってくる。

そうやって自分なりに、決めた道で歯を食いしばって、地べたを這いつくばってでも、早く日の目を見る時まで堪える力はあるのだと思っています。

というか、これが普通だとぼくは思ってしまっていました

ある一言を聞くまでは。

HPモンスターと言われて気が付いたこと

ぼくが少年時代夢中になったRPGゲームの「ドラクエ」などに代表される命を数値化したHP。

ぼくはこの間「ゆーすけはHPモンスターだからそう感じるかもしれないけど、できる人ばかりじゃないからね!」と、とあるゲストハウスビールモンスターに言われてハッとしました。

※HPモンスターとは無駄に体力ある人のことを言うらしい。

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『ビールモンスターがあらわれた!!』
たたかう

のむ

いじる  ◀︎

にげる

ゆうすけはビールモンスターをいじってみた。

なんと!ビールモンスターはフェイスブックで拡散している。

ゆうすけの にんちど が2上がった。

ドラクエの中には職業によって振り分けられた特性があって、攻撃力が強くて体力も多い「戦士」がいれば、素手の攻撃は弱いし体力もないけど、魔法などの特殊能力を使うことができる「魔法使い」や、傷を癒してくれる「僧侶」などがいます。

ぼくがどうやらHPがありすぎる「戦士」のようなタイプだと言うことが言いたいようです。

ゲームの中の戦士は確かにHPも高いし、攻撃すれば相手に大きなダメージを与えることができる頼もしいやつです。

しかし特殊能力を使うMPは全くないので、自分がダメージを食らっても回復系の魔法は出せません。

魔王と戦いながら、チームが瀕死状態に陥ってしまったときに必要なのは、戦士の体力ではなく、回復系の魔法が使える魔法使いや僧侶の方が、はるかにニーズは高いのです。

つまり、人にはそれぞれキャパシティがあって、役割があって、戦士も魔法使いも能力差があるだけで、みんな一生懸命戦っているのだと言うことです。

体力も能力

現実社会に置き換えてみれば、営業が得意な人、事務作業が早くて正確な人、職人のように一つのことに没頭する人、あっと驚くアイディアをひねり出せる人、誰よりも丁寧にコピーができる新人、そしてそれらを束ねる経営者やリーダー。

いろんな人がいます。

絵を描かせても下手くそすぎるけど、文章書かせたらスペシャリストって人もいるでしょう。

人前でプレゼンはできないけど、傾向と対策をきちんと立てて資料を作成できる人もいるでしょう。

30歳にもあって「パワポ?どうやるの?」って人もいれば、50歳になってもバリバリ元気な人だっています。

ぼくは、何にも優れたものをもっていないって思っていたけど、体力はあるんだって思いました。人並み以上に。

そして、自分の体力を普通とか、当たり前とか思い込んでいて、それを人にも押し付けていたということにも。

ぼくが、できもしないことを当たり前のように押し付けられたら、と思うとゾッとします。

余談ですが教員時代、真面目に時間外勤務の時間を記し続けたら月間200時間近くありました。

そして、これをぼくはたまたま普通〜にやれてたということ。

それができないから、時間内に仕事を終わらせて定時過ぎて帰る人が手抜きかと言えばそうではないわけです。

一方で、この量を?って思える教材をささっと仕上げてしまう人や、ものすごい時間のかかる生徒の進路用の書類を短時間で仕上げてしまう人もいました。

ぼくには無理でした。

人にはできること、できないことがあって、チームや組織はそれを補っていくためにある。

それなのに、同じ方向を向くことが、同じ勤務形態、同じ仕事量、内容、とは限らないのに、なぜかそうさせたがるし、きっと年功序列ってまだまだなくならない。

もし「残業200時間なんて当たり前」って言ってもそれは違うし、「この仕事くらい誰にでもできる」と言われても、それも違うと思います。

だから役割は成り立つのであって、1人ではできないことも、周りがいるから仕事は進んでいくんです。

ぼくの周りには、ぼくの至らぬ点をカバーリングするために、走り回ってくれている仲間達がいます。

頑張った先に何を見るのか?

ぼくだって好きなことしてたって、しんどいことくらいあります。

「早く帰りたいな〜」

「お腹減ったな〜」

「もう眠たい」

でも、ここまではやろうとか、きついけどもうひと頑張りってそういう気持ちになれるのは、そもそもその先にある楽しみや希望があってこその感情だと思うんです。

「頑張ったって報われない」

「続けても意味がない」

「この先に何の希望も見出せない」

本当にそう思うなら、人生を辞める前に考えることがあるはずです。

それが「仕事を辞める」ということ。

でも、簡単に仕事を辞められない理由が、この国にはたくさんあります。

それが、辞めたことを「悪」とする風習

学校を辞めて言った人たちは「根性なし」とか言われたり、「クズ扱い」されたり。

仕事を辞めて無職になると「社会不適合者」って言われたり、ニートやフリーターが見下されたり。

だから環境が悪くても、人間関係に悩んでも、精神が崩壊しそうになっても、続けるしか選択がないんです。

そう思ってる人たちの「我慢」とか「忍耐」の先には、夢も希望もないんだと思います。

そうやって社会に適合できなかった、というレッテルを貼られるのが嫌で、みんな辛くなっても「続ける」を選んでいる。

希望もないのに続けて、その限界を超えてしまった時には、仕事とか学校辞めるとか、そんなことでは済まされないものを辞めてしまうんだと思うんです。

本当に個性は育まれているのか?

「個性を育む教育」とか言いながら、個性は本当に育まれる工夫があるのでしょうか?

大学生の一大イベントは「就活」ですね。

就活が「シーズンイン」した瞬間に、染めてた髪の毛は不自然な黒色になり、ピアスを外し、同じ色のスーツを着て面接を受ける。

これのどこに個性があるのでしょう?

リクルートスーツ集団の控え室に、金髪に短パンでも履いて行ってしまった日には「変なやついる」「あいつ終わったな」なんて言われる始末。

「就活をしない」という選択肢に対しても「あいつは変わっている」とか「真面目に働け」とかって声が出て、「就活しない=変なやつ」となってしまう。

一方で、それ以上に怖いのは「働くことへの希望」を持たずして就活している人たちが多いと言うこと。

「大学を卒業して仕事がなかったら・・・」

「働かないとお金がない・・・」

そんな恐怖観念の中から、今の自分が受かりそうな会社を探して、無理やり未来をつくろうとする。

もちろんやりたいことが決まっている、行きたい会社や魅力を感じる会社があるって人はもちろんそれでいいんです。

でもそれが普通じゃないし、当たり前じゃない。

大学を卒業して就職する人もいれば、じっくり大学院に行って研究を続けてもいい。

それなのに、無職になってみるのはダメって変な話。

何でも体験してみろって言うくせに、その体験の選択肢は、社会の基準の中でって話になってしまっている。

だから無職は悪になって、その脅迫みたいなものが無理やり就活レースに巻き込んでいく。

だからと言って就活しなくていいかってそう言うことでもないのだろうけど。

できることをもっと伸ばしていくとか、できないことを一個ずつできるに変えていくとか。

そして、それを認めてあげることとか。

問題の根っこはもっと深いところにあるのだと思います。

選択肢はいつも対で存在する

教員を辞めようとした時「辞めてどうするんだ?」ということをよく聞かれました。

「カンボジアに小学校を建設する」と言った時も、「それが何になるんだ?」「どうやって飯を食うんだ?」当たり前だろうけど、そんなことばかり聞かれました。

そんな中、居酒屋で会ったおじさんには「あなたのような若者が増えたらいい!」って無責任に言われたので、意地悪にもこう返してやりました。

「もし、あなたの娘さんの旦那が給料を半分以下にして、職業不明な人になってカンボジアに行っても同じセリフが言えますか?」

おじさんは黙ってました。

多分、これが大方普通の意見です。自分は、自分の身の回りははみ出したくない。

だから、親身になってくれる人ほど、「大丈夫か?」「目を覚ませ!」「もっとやるべきことがあるだろ」って言ってくれたと思うんです。

人と違う道を行こうとすると「うまくいかないかもしれない」「飯が食えないかもしれない」、誰もが思うと思います。

そんな不安の対には「うまくいくかもしれない」「笑って飯が食えるかもしれない」ということだってあるわけです。

しかし、前者のイメージの方が先行するだろうし、一般的だと思います。

ですが、うまくいく道しるべなんか見えなくたって、案外何とかなるもんですよ。

そんな心配する前に、どうしたらうまくいくかを考えて動いた方がいいです。

もちろん、家族や妻には心配かけっぱなしかもしれませんが。

僕は今も生きています。

そして、人生のあらゆる選択肢と可能性と、挑戦する意義を僕は生きて証明したい。

みんなできることを精一杯して、あがきまくりましょう!

これからもHPモンスターなりのあがきをしていきます。

ただMPなくて回復系の魔法使えないので、優しく接してもらうか、たまにはルイーダの酒場で飲みましょう。

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