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何のため?誰のため?物語の中に相手がいない自己満こそ偽善なのだということ

投稿日:2016年10月25日 更新日:

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カンボジアの小学校建設がまだ全く形になりそうもない頃、たまに偽善者呼ばわりされることがありました。

 

「現場も知らない、やってることも知らないで、好き勝手言いやがって。」

 

と、ぼくは思っていましたが、多分それはぼくにも原因があったのかな、と今では思います。

 

「カンボジアの子どもたちとの話」は言い方ひとつでいろんな受け取られ方をします。

 

今日は、偽善というものをテーマに、海外の人々と関わる際に考えなくてはいけない話をしたいと思います。

 

国や地域は違えど、同じような活動をしている人たちなら、一度は考えたことではないでしょうか?





世界で起きている事実は一部であって全部じゃない

ぼくのように、一般的に言う海外支援とか国際協力と言われてしまうような活動には、この偽善という言葉は、きっとこの先も切っても切れないものなのだと思います。

 

ぼくの場合はボランティアでもないし、支援でもないのですが。

 

関連記事:カンボジアでボランティア?ぼくらは支援でもボランティアでもない関わり方を選んだ

 

もちろん、最初は支援したいという思いで始めたけど、関わっていくうちに心境の変化があったのですが。

 

「共に生きたい」という強い願いが出てきたんです。

 

そしてそのためには、ぼくがぼくのために生きてこそだと。

そのあとに、守りたい人を守れるようになるのだということにも気付きました。

関連記事:自分がやりたいことやるためには「複数の収入源」と「強み」は持っていたほうがい

 

ただ、どうしても、海外の子ども達と関わっていると、偽善だと思われることがあるらしく。

 

人の為って書いて偽りと読むけれど、まさに日本語の構成の意味深さは本質的で、「恵まれない子ども達のために」というワードこそまさに、人の為に社会的価値のあることをしているようで中身のないものなのだと思います。(怒られるかな、こんなこと書いたら)

 

確かに世の中には、食べるものが足りずに栄養失調の人もいる。

破れたTシャツに裸足で、旅人達に物乞いをしている人たちがいる。

病気になっても医療費が払えなくて、重篤化してしまう人もいる。

 

一つ一つの事実を、目の当たりにしたり聞いたりすると、かわいそうだなとか思ってしまいます。

 

そして、恵まれない人たちに何かできないかな?とか言い出してしまう。

 

ぼくもそうでした。

 

一時的なことなら何だってできる

世間知らずだったからこそ、自分とは違う環境にいるだけで、自分の価値観という小さなものさしで、他人の幸せを勝手に決めつける。

 

だから、もしかしたら劣悪な環境の中で生きていても、ぼくらに求めていることと、ぼくらがしようとしていることは別だったりすることがあります。

 

例えば、栄養失調の子ども達が暮らす難民キャンプの現状を知ったとしたら。

 

ぼくらは、食べ物がなくてかわいそうとか言って、食べ物を持っていくかもしれない。

 

だって、一時のことなら簡単にできるから。

 

でも長くは続かないことなんて、相手に期待させるだけの、虚しくて悲しいことなのかもしれないとも考えるようになりました。

 

もう二度と来ないかもしれないから、一時的に、爆発的に暖かそうな施しができるだけなのだと。

 

でも、もしかしたら、もしかしたらだけど。

 

相手の願いは違うかもしれないですよね。

 

上っ面だけ見て推測でものを言っていないか?

なぜ食べ物が不足しているのか。

なぜ難民キャンプに来ることになってしまったのか。

 

そうなってしまった原因(気候、天災、紛争、政治的・宗教的なものなど)と事実を歪めずに世界に発信してほしい、みんなに知ってほしいということが願いなのかもしれない。

 

「今日のご飯は凌げるから、この原状回復のために問題解決に向き合ってほしい」ということが、ぼくらへの願いかもしれないのに、僕らは上っ面の問題だけを見て「目の前の笑顔のために」とか言っちゃって、相手の願いなんて考えずに、自分がやりたいことで相手を喜ばせた気になって、勝手に気持ちよくなっちゃってるだけなのかもしれない。

 

だから、関わっていけばいくほど、ぼくは何かを施すことに対して一旦ストップがかかるようになりました。

 

それは、何のため?誰のため?これをきちんと自分に落とし込んでからにしようと。

 

ぼくがやりたいから?

いいカッコしたいから?

相手が喜ぶ気がするから?

 

そんなものはバッサリNOと決めて、目的をとことん明確にしよう。

 

それをすることで、自分は何を相手に届けたくて、相手はどう感じて、結果それを通じてどうなるのか?

 

そしてそれが誰のためなのか?

 

矛盾しているように感じるかもしれないけど、間違いなくぼくはぼくの幸せのために生きています。

 

でも、ぼくは絶対「自分がこうしたい」だけで他人を巻き込んだ行動は起こさないって決めています。

 

人生の物語の登場人物は自分だけか?

自分がこうしたいとか、こうなったらいいな、っていう未来の中にきちんと「相手」はいますか?

 

そしてその相手は笑ってくれますか?喜んでくれますか?

 

相手がいない自分中心のビジョンだけでは、誰も救えないどころか、誰からも応援を得られないとぼくは思います。

 

人は自分の知らない物語にドキドキして、明るい方向へ歩き出そうとする。

 

そこに、相手の存在のあるビジョンが見えなければ、自分がこうしたい・こうなりたいだけだったら、絶対に賛同は得られないのだと思います。

 

そして、相手の存在がないビジョンの中で偽りの行動ばかりしていると、そんな生き方にしんどくなって、誰も守れないどころか傷つけて終わりになってしまいます。

 

都合のいい時だけかっこいいこと言って、都合が悪くなったらいなくなる。

 

それこそ偽善だと。

 

そうならないために、もう一度ぼくらはアクションを起こす前に考えるべきことがある。

 

そんなことを考えさせられる最近です。

関連記事:例えば人生が一本の映画で主人公が自分だとするならばって話

 

国際支援とか考えたら読んでほしい本はコレ!

 

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