先日「ゆーすけはカンボジアの子ども達が好きなの?」って聞かれました。
もちろん関わっている人たちのことは好きだし、大切なのですが、だからと言って「カンボジアの子ども達が好きだからカンボジアにいる理由」ってのは少し違います。もしそうだったら「嫌いになったら帰るんか?」って話ですよね。
同じようにカンボジアに来たのもカンボジアが好きだから来た訳ではないです。もしそうだったら嫌いになったから帰るのか?って話ですから。
好きだからやる、嫌いになったらやらない。ぼくはそう言った感情論でカンボジアにいる訳ではないです。
むしろ、好きな国へ行く、好きな国で何かするってのは個人の勝手ですが、嫌いになったから帰るなんて、自分の意思で来ておいてそんな無責任なことあるか?って感じます。
そこには本当の信頼関係は生まれておらず、一方的な期待という相手への依存心が強ければ強いほど、相手が自分の思い通りな対応をしてくれないと勝手に裏切られた気持ちになる訳です。
好きの反対は無関心
よく言われることなので今更感もありますが、「好き」の反対は「嫌い」ではなく「無関心」です。
好きとか嫌いとかいう感情が湧く時点で相手に興味・関心がある訳です。
「今でもカンボジアの子ども達が好き?」と言われたことに対して、厳密に答えるとするならば「今は好きな状態」であって「嫌いな状態」だってこれまでにはあった訳です。
そして、その感情は多分これからも時々起こるのではないかなと。
長く付き合っていれば、誰にでもいいところと悪いところがあることが見えてきます。
もちろん、ぼくも。
嫌なところが見えてからが本当の人間関係の始まり
話を今日の本題に戻すと、「カンボジアが好きなので来ました」と言っていた人が「カンボジアが嫌いになったので帰ります」ってのは、興味がなくなったってことだぼくは捉えています。
冷たい言い方かもしれませんが、その程度の気持ちと覚悟しかなかった裏返しだと。
関わっていた人との人間関係を話に出して「誰々が〇〇だから、気持ちが切れた」って言えるってことは、結局その人や周囲の環境に依存し、自分にとって都合が悪くなったら人や環境のせいにして自分を守っているだけだとぼくは思うのです。
本当に大切だったら、本当に力になりたいと思っていたら、相手の嫌な部分が見えたくらいで見放すことができるでしょうか?
それなのに人生においては急に確率論でものを言い出して「そんな確率の低い夢は諦めなさい」とか言い出したりもする。
人生の中で選択する機会が増えるってことは野球でいう打席に立つ機会が増えるってこと。
一回失敗した(打てなかった)くらいで挫折したり諦めたりすることじゃない。— YUSUKE KITAGAWA (@yusukeworld_) 2017年11月30日
親から学ぶ無償の愛
ぼくは、好きなことをさせてもらいながらも、割と口うるさい両親のもとで育ったので、気に入らないことがあると反抗もそれなりにしました。
ぼくがどれだけ両親に酷い言葉を投げつけて、逃げるように部屋にこもってそのまま朝を迎えても、必ず笑顔で「おはよう」って言いながら朝ごはんを用意し、学校へ持って行く弁当を用意してくれる母親。
新聞を読むふりして不器用ながらもこっちの様子を伺いつつ、一足先に家族のために仕事へ出かけて行く父親の姿が、今になって「本当に大切なもの」への接し方を教えてくれています。
きっと口うるさく言われた瞬間、ぼくは両親が嫌いだったし、酷い言葉を言われた両親もその瞬間はぼくのこと嫌いになったかもしれません。
でも、大切にされていたから両親はぼくを見捨てなかったし、ぼくにとっても大切な存在だから家が嫌で外へ出るということは一度もありませんでした。
家族同然の付き合い方
家族のように日々同じ空間にいる時間が多いと、きっといいとこより悪く思える部分の方が目につきやすくなるのだと思います。
それは家族だからこその所以でもあり、家族だからこそ他人には見せたり言ったりできない巣の自分がそこにいる訳です。
良くも悪くも。
「カンボジアだから〇〇」っていう一括りは好きではありませんが、カンボジアの人たちは家族をものすごく大切にする印象があります。
だからこそ、職場やコミュニティの中で共有する時間や空間が増えると、家族同然に思えて来ます。
誰かと一緒に何かするってのは、そんな家族同然のことだからこそ、目につく嫌なところを見ることが続いて、気持ちが簡単に離れるくらいならぼくはわざわざここにいるべきではないと思います。
大切って本当そんな軽い気持ちで言える言葉ではないし、守れるものも制限や優先順位があります。
そして、言葉や行動の根っこには自分の気持ちがある訳です。
じぶんがやりたいことをするためにカンボジアへ来る人、カンボジアで求められていることをしに来る人。
どちらがいいとか悪いの話ではありません。
ただ「自分が何をしたいか?」がわからなくなってしまうことが一番怖い。
言うは易しとはこのことで、人のためにって言葉を口にしながら来ても気持ちが続かない人の多くは本音は、「人のために動いているような自分が好き」なんだと思います。
まとめ
ただ、こうして過去の自分に言い聞かせるように書いてみても、ぼくもたまにこんなシンプルなことを忘れてしまいそうになります。
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だからこそ、自分への戒めとして文字にしています。
相手が自分を信じてくれているのに、自分は期待だけで付き合って都合が悪くなって人を簡単に見捨てることがなるべくないようにしたいから。
「嫌いになったからやめる」
その言葉すら吐き出すことは簡単で、簡単だからこそ人は言葉や行動の中に暴力がなくても、簡単に人を傷つけることができてしまう。
時間の使い方くらい意識したいのが言葉の使い方。
ヒトとして言語をもって生まれることができたのだから、その言語は人を傷つけたり不快にさせたり見下したりするために使う必要はなくて。せっかくなら少しでも場を明るくしたり人に元気を与える使い方した方が自分も相手も気持ちがいい。— YUSUKE KITAGAWA (@yusukeworld_) 2017年11月27日
だからこそ「自分以外の誰か(何か)のため」って言葉にするのは、それ相応の覚悟がいることで、その実現は簡単なことでもないです。
自分が自立していなかったら絶対無理。
それでも、ぼくらは日常で誰かを助け、誰かに助けられているから、人を思えばもっと目の前の世界は簡単に明るくすることもできるのだと信じています。
小さな命一個守るにもぼくらは一人では何もできなくて、だから人は必然的に誰かを助けて誰かに助けられて生きている。
一人では社会は変えられないかもしれないけど、一人では生きていないからこそ社会は変えられるのだと。— YUSUKE KITAGAWA (@yusukeworld_) 2017年11月30日
そういえば随分長いことカンボジアにいます。「生きている実感」をより強く味わえるカンボジアへ遊びに来ませんか?
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