カンボジアに小学校を建設している間にたくさんの人と出会ったなあと思って数えたら123名の人が現場に足を運んでくれていました。ありがとうございます。
カンボジアに小学校を建てると言ったぼくに賛同してくれた人すごすぎ
「カンボジアに小学校を作っちゃうなんてすごいね」と言っていただくこともあるのですが、自分でやるって決めたことをやっただけなのであんまり大したことないです。
それよりも、他人がやっていることに対して心から応援できたり、自分にできるか関わり方を探して時間や労力やお金を使ったり、一緒に汗をかける人、同じ目線で考えられる人がすごい人だなって思うのです。
参加者の多くは、建設が始まってから知り合った人たちばかりでブログやTwitterで活動を知ってくれたり、たまたま同じゲストハウスに泊まっていただけって人たちばかりなんですよね。
もちろん、参加者の中には「自身の体験談」のために参加した人だっていると思います
でも、参加理由は何だっていいんです。「子ども達のために」とか「カンボジアのために」なんて深く考えなくたって、決して悪いことじゃないと思います。他人のために時間を使えってみようと思えたことに大きな意義があるのです。どんな理由であれ、行動したことがすでに貢献活動です。
やったことが意味ないことはない
ボランティアとか国際貢献とかって言葉が多く飛び交う中で、その活動の意義は多くの物議を交わすこともあります。
特によく言われるのは
「それをして何になるのか?」
「それ意味あんの?」
「こんなわけわからんやつ、騙されてるんじゃないのか?」
3番目のぼくの信用問題なんてどう言われたっていいんですが、それよりも「意味」とか「理由」を探してしまうのはもったいないなって思います。そうやって見つかるのは「やらない理由」ばかりだからです。
もちろん本当に無駄なことや無意味なことは、ぼくだってしたくはないです。
でも
「就活に有利じゃないから」
「資格がとれるわけじゃないから」
そんな理由だけで、心が興味を示した方向から目を逸らすのは非常にもったいない。
何それ?おもしろそう!ってそんな判断だけで手伝ってくれた人たちの方がほとんど。
そうやって実際に動いて、汗をかいてくれた人の積み重ねが、今回は「学校」という形になっているんです。だから意味ないことなんてない。
いいなって思ってやってみた先にしか答えはないし、その選択は後からの行動でいくらでも正解に変えられます。
やらない善よりやった偽善
そうは言ったって情報が溢れかえった時代なので、ちょっと何か検索すればいろんな情報が出てきます。
- 途上国に井戸を掘ったけど枯れてしまった
- 建設した学校が使われていない
みたいなネガティブなニュースだって聞いたことあります。それも事実かも知れないけど全部じゃないです。
掘った井戸が壊れたまんま放置されていたこと、ぼくも体験済みです。だけどそれも結果の一部。
「壊れたまま」「使われてない」そんな一部の結果だけ見て「意味がない」って決めつけるんだったら、そうしたらもっと良くなるかを自分の頭で考えて行動してみる方が意味があると思う。
口だけの評論家になるくらいなら、どれくらい無駄かやってみたらわかる。
バーチャルの中で世界一周して世界中のことを知った気になるより、自分で手を動かして建てた学校を見て自分の頭で考えた方がよっぽどいろんなこと感じられますよ。バーチャルの中で鈍った感性はリアルで磨こう。
カンボジアの小学校建設を手伝ってくれた皆さんありがとうございました
さて、前置きが長くなってしまいましたが、今回の学校建設。
中心となってやったのは、ぼくかもしれないけど、ぼくがカンボジアという国やそこで暮らす人々、そして参加してくれたみんなに何かを与えたわけでも、残せたわけでもないです。
力のないぼくをみんなが支えてくれたおかげでプロジェクトは無事完了しました。
クワの持ち方やモルタルの練り方をカンボジア人に教えてもらって、成長させてもらったり、学ばせてもらってばかりだったぼく。
ぼくだけの力だけじゃ、どれだけお金や時間があってもできないことがみんなのおかげでできました。本当にありがとう!
現場に来てくれた人、来たくても来れなかった人、来る気は無いけど応援していてくれた人、関わったり気にかけてくれていた人たち全てに感謝です。
オークンチュラン!
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