カンボジアに小学校を建設する計画をし始めた頃、「なぜ学校が必要か?」ということをよく考えていた。
『学校がないから学校を建てる』ではなくて、『学校ができたらどうなるのか?』に主眼を置いて。
同時に「貧困」についても考えるようになった。
お金がない
食料がない
モノがない
貧しさってそれだけじゃない気がしていたから。
想像力こそ人類普遍の資源
人生の中で困難や壁にぶつかった時、どうやってそれを解決していくのか?
そんな「想像力」こそが、自分の人生を自分たちの手で切り拓く「行動力」を生み出すのだと考えるようになった。
そして、「想像力が乏しいこと」が貧しさなのかも、ということも。
想像するからこそ明日に期待をし
想像するからこそ未来に絶望もする。
人間誰しもが持つ「想像力」という力を最大化するための場として、ぼくはカンボジアに小学校を建設する決意をした。
歴史の中で失われたもの、時代を超えて残るもの
目立つこと、はみ出ることが、命の危機に直結していたクメールルージュの支配下の時代。
カンボジアだけでなく、多くの国が一度は殺戮や略奪といった悲しい歴史を抱える中で、ここカンボジアにおいて失われたものは命だけではなかったのかもしれない。
そして、その影響は、どれだけ時を経てもなかなか簡単には薄れていかない。
何か一つのお店が流行ると、似たような商売が増える風潮は、そんな時代的背景も影響しているのではないかな?とバカなりに思考を巡らせてみたりもしている。
自分たちの力で新しいものを創造するという機会が、もしかしたらこれまで充分になかったのではないだろうか?
目新しいものに興味が湧いて、いいと思ったら同じようなものを作ることが「パチモノ」や「コラージュ」の垣根がないどころか、そこにはもしかしたら「理由」すらないのかもしれない。
「こうしておけばいいんだ」
そうやっていつまでも右習えでいさせることが、一番不幸かもしれないし、あらゆる可能性を奪っているのかもしれないと思ったら、ぼくはすぐにでも彼らのもつ可能性を信じてみたくなった。
彼らが本来から持つ感性や感覚、そしてぼくらと同じ時代を異なる時代背景で歩んで来た人たちの記憶や記録から、お互いに手を取り合うことで、これまでにあったものをより良いものに変えていく。
本来多くのものが、そうやってアレンジされたりしながら時代とともに変化をして、現代にまで受け継がれているのだから。
そして形を変えてでも、長年残っているものが本当にいいものなのだということも感じている。
ものづくりへの想いとゆずれないこと
成功するか失敗するか、そんなことやってみなきゃわからないからこそ、挑む機会だけは損なわせたくないし、うまくいかなかったからといって絶望させるような結末にはしたくない。
ただ、ものづくりという手法を選んだ以上、細部にまで作り手の温もりと魂が宿るようなものを生み出したいし、この過程で生まれる物語はありったけ詰め込みたい。
「カンボジアの子ども達がつくったから買う」という同情ではなく、本当に欲しいと思える良品を生み出すことが作り手の義務でもあるし、そうやって一緒に価値を生み出すことで自信を与え、次のアイディアへと繋げていくことが、一番彼らの生活を守れると思っているから。
物語のあるものづくりと、物語を付け加えたものづくりは全くの別物。
異国の地で外国人のぼくらが現地の人たちと手を取り合うためには、多くの時間と空間をもっと共有していく必要がある。
何かを与えたり、答えを教えたりするのではなく、一緒に味わうことを増やしていく。
一緒に味わう時間や空間を増やすことで「何のために?」という共通の目的はもっと明確になっていく。
資本のある企業で多くの雇用が生み出している訳ではないので、信用を勝ち取るためにはカネをかけられない分、時間をかけていくしかないのだ。
そして、アイディアを盗られたらどうしようとか思っていたけど、そもそもそんな知名度も力もないぼくらにそんな心配は無用だった。
盗みたくなるアイディアになるまで成長することが今は一つの指標だし、アイディアは盗めたとしても本質までは盗めないから。
ぼくらは、カンボジアで商売をしたくてものづくりしているんじゃない。
カンボジアで縁があったコミュニティの人たちと運命に抗うために、手を取り合って共生していくために商売を選んだ。
彼らの悩みは、ぼくらのそれとはまた違う。
だからこそ、心の奥底の想いを知るためには、もっと時間をかけるしかない。
経験から夢は生まれていく
「体験したことしか語れない」という言葉があるならば、子ども達にはいろんなことを体験させることで多角的な視野を持ってもらいたいと思っている。
今定期的に行なっている「遠足」も遊びではなく、そんな意味合いも込めている。
知らない世界を知ることで、知見は広がっていく。だからぼくらも旅に出るのだと思うし。
ただ、旅に出ただけでは何も変わっていないように、そこで見て、触って、感じたことを自分の人生に落とし込んでいく。
そして何かしらで発信をしていく。
「世界一周」すること、それ自体になんの価値もないように、ぼくらがここでやっていることも未来に結び付かなかったら何の意味も持たないから。
まとめ
きっと世の中には多くの上っ面が転がっている。
英語が話せても、伝えたいことがなかったら伝えることはできないように。
お金の稼ぎ方を知る前に、稼いだお金で何がしたいか見えていないと孤独になるように。
子ども達には、英語が話せるようになってほしいわけでも、「いい仕事」と呼ばれる職に就いてほしいわけでもない。
ただ、挑戦する機会と可能性を奪われたまま、知らない世界で犠牲になっていくのだけは避けたい。
そしてどこで何をしていても、幸せだと笑えるなら、その人生をとことん見守りたい。
心から笑えないなら、そんな話を聞ける家族のような存在であれるようにそばにいたいし、関わった人たちにはできる限りの応援をする。
ぼくはそんな人間関係と、そんな人たちとの未来をここで創りたい。もちろんカンボジア人とだけでなくいろんな人たちと。
ぼくは勝手にそう決めて、今日も生きている。
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