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グラスにビールを。心には愛を。

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開校式での乾杯の様子

人に優しくなりたいよねって話を友人としていた時に聞いた話。アイキャッチ画像のグラスにはビールは入っていません!!!

その選択は1年後も笑って乾杯できるか?

例えば、自分の心をグラスに、愛情をビールに例えたら・・・

 

喉がカラカラで何か飲みたい、そんな時。

 

周りの人も同じで、自分だけビールが入ったグラスを持っている。

 

周りの人のグラスには、ビールもコーラも水もない。

 

近くにお店屋さんはない。

 

そんな時、自分だったらどうするだろう?

 

もしぼくのグラスのビールが満タンだったら、気前よく周りのみんなに配ることができるかもしれない。

 

でもそれが半分しかなかったら?

 

4分の1しかなかったら?

 

同じような気持ちで、誰かに、自分の大切な何かを与えることができるだろうか?

 

もしかしたら、その日はみんなで分け合って、自分もほんの少しのビールで我慢する。

 

その日はそれでいいかもしれない。

 

「この人たちのためになるなら」と、自分が飲みたい量を我慢してでも、笑って乾杯できるかもしれない。

 

一回だけだったら。

 

でも次の日もそうだったら?

 

そのまた次の日もそうだったら?

 

それが1ヶ月続いたら?

 

1年続いたら?

 

最初に分け与えた日と同じ気持ちで、おいしく乾杯できるだろうか?

 

「何で与えてばかりなんだ?」

「なんでこの人たちはもらって当たり前なんだ?」

 

そんなことを言い出してしまうかもしれない。

 

しまいには

「もうあげない」とか言い出して、自分だけどこかへ行ってしまうかもしれない。

 

これが、撤退の理由の一つじゃないか?

 

そんな話をした。

 

小さなお節介、大きな迷惑

でももし魔法みたいに、飲んでも飲んでもそのビールが消えないとしたら?

 

ぼくらはどこかから人を呼んできてでも、分け与えるかもしれない。

 

「飲みなよ飲みなよ」って。

 

そうしたらいつまでも、笑って乾杯できるかもしれない。

 

 

でも、現実はそうはいかないから、自分のグラスが空になったら、自分でグラスに注ぐものを探してこなくてはいけない。

 

分け与えたいと思うなら、なおさらのこと。

 

もしかしたら、グラスだって大きくしなくてはいけないかもしれない。

 

守りたいものが増えたなら。

 

 

自分のグラスに入っているビールの量がわからず、誰にでも分け与えていたら、いつか分け与えていた自分がしんどくなってしまう。

 

自分で始めたことなのに、「もうやらない」って言い出すこともある。

 

これが「途上国ボランティア」ではよく起きている。

 

最初は「村のために」とか「子ども達のために」って思いだけで、どこまでも走れる気がする。

 

でも、自分のビールはどれだけ入っているのか?その補充はいつまで続くのか?

 

それもわからずに、人のためって何だか違う。

 

最初は毎日満タンになっていたグラスが、いつのまにか満タンまで溜まらなくなって、それでも毎日求められる量は変わらなくて、もしかしたら増えることもあって。

 

自分の負担だけが大きくなっていって、最初に守りたいと思った人どころか、自分の生活すらも危うくなる。

 

そこに本当の思いやりはあるのだろうか?

 

できていたことができなくなる残酷

話を現実に戻すと、心のグラスの中に、愛や思いやりがあふれた状態を常につくっておくことで、人は初めて他の誰かに優しくなれるのだと思う。

 

一時の優しさではなく、いつでも。

 

ビールは飲めばなくなってしまうし、魔法のようにあふれ返らせることはできない。

 

だけど、自分の心のグラスの中に詰め込む気持ちは、自分の取り組み次第でいくらでも溢れさせることができる。

 

自分が幸せじゃなかったら、誰かを幸せにできないってそういうことなのだと思う。

 

そして、これは気持ちだけでなくお金でも同じことが言える。

 

「誰かを守る」って、ものすごくお金がかかること。

 

物価が安いと言われる国だって、お金がかかることには変わらない。

 

でも気持ち同様に、お金だって働き方次第では増やすことができる。

 

守りたいもののためには、お金はあった方がいいに決まっている。これは事実。

 

このお金の問題が現実的にはシビアで、去年はできたことが今年はできない。

 

今年できてたことすらも、来年はできない。

 

そしていつかは、運営することも難しくなって、関わることもやめていなくなる。

 

そうやって離れていく団体をこれまで見てきた。

 

最初に期待だけさせて、できなくなると、自分たちの都合で活動の幅を縮小していく。

 

関わった責任、やり始めた責任。

 

それはきっと、向こうから「もういいよ。大丈夫」って言われるまで終わりはない。

 

できないのなら、最初からやらない方がよかったことなんだと思ったら自分たちがやっていることへの重圧もまた少し大きくなる。

 

できないなら最初から何もしない方が、自分の空のグラスにどうやって飲み物を補充したらいいか、みんなが考えて動いたかもしれない。

 

でも、もし自分があの時手を差し出さなかったら、あの人たちは、今日を生きていなかったかもしれない。

 

そんな葛藤の中でみんな生きているんだ。

 

迷った時は目的に沿って。誰のため?何のため?

「だけど…一度差し出した手を、自分の都合で引っ込めるなんて、俺たちにはないよな?」

 

勇太とそんな思いを確認しあって、できない理由をひたすら潰し、いいと思ったことはとりあえず何でもやってみる。

 

守るべきもののためにぼくらは動く。

 

これまでもずっとそうだったし、これからもきっとそう。

 

それが自分たちの喜びでもあるから。

 

目的が明確だから、しんどいことがあっても、負けない。

 

だって、ぼくらは目の前の子ども達から、周りのみんなから、いろんな気持ちをもらっているから。

 

だからぼくらの心は、いつも溢れかえっています。

 

あとは動いて動いて、自分たちが自分の人生を生きた上で、子ども達に必要なお金を毎月生み出す。

 

使いたいお金の出口が明確だから、稼ぐってことへの卑しさもない。

 

本当に毎月毎月この繰り返し。

 

ぼくの心のグラスが埋まっていなかったら、この数年続けてこれなかったかもしれないことがたくさんありました。

 

でも、ぼくらには「撤退」という選択肢はありません。

 

だからと言って、自分たちが苦しんで、我慢しながら、病みながら、借金増やしながらやる。それも違います。

 

これからも絶やさないように、できればグラスと言わずピッチャーやビールタワーくらい大きくして、それでも常にあふれているくらい。

 

大切な人たちが増えても、いつでも、「飲もうよ」って笑顔で言えるために。

 

 

「足りない」「もっと」っていうのは簡単です。

 

でも、自分のグラスくらい自分で溢れさせておきたいものです。

 

自分の人生をまっすぐ生きて、守るって決めた子ども達のこと、この先の未来までしっかり見届け続けたいと思います。大好きな仲間達と一緒に。

 

グラスにビールを。心には愛を。

 

乾杯。

追記

実はこれ、学校建設をずっと手伝ってくれているくるみからのリクエスト記事なんです。

お酒飲みながら話した何気ない話を覚えてくれていて、友達とこの話題になって、このストーリーを探して、ブログを読み漁ってくれたと。

この時の話がずっと胸に残っているからぜひ記事にしてほしいと頼まれて、今回このような形で記事にしました。ありがとう。

書きながら、自分にまた言い聞かせるように、目の前のことを考えることができました。

グラスにビールを注ぎまくった日々

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