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できるかできないかばかりを考えて挑戦することができなかった少年の話

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初対面の人と少し話して打ち解けてくると、結構な確率で「昔悪かった?」って聞かれます。何でですか?

一方で、話を聞きに来た学生さんたちからは「学生の頃から勉強できたんでしょ?」「エリートだったんでしょ?」

とか言われるのですが、どっちでもないのにどっち路線で行くかいつも迷います。

「人生の転換期だった」と思えるポイントは人それぞれあると思いますが、今日はその中でも挫折と挫折を味わってどう考えるようになったか?をまとめました。

この記事では

  • やりたいことや好きなことがあるのに
  • 自分には無理かもとか
  • できないかもとか
  • やる前から理由つけてやりもしない

という人に向けて、人生妥協してても一つもいいことないぜって話を実体験に基づいて書いています。

実体験なので、ちょっと私ごとが多いですが、人のふり見て我がフリ直せじゃないですけど、なんか行動を躊躇している人の背中を押せたらと思いながら書きました。ぜひ読んでってください。

そこそこ勉強ができてしまった中学時代は野球を諦めそうになった

ぼくは小学校3年生の時から野球をやっているのですが、小学校時代はそこそこ上手だねって言われることが多くて、完全に天狗でした。

中学校進学の直前に「このまま中学で部活を続けるより、シニアリーグに行って硬式ボールに慣れた方がいい」という周囲の声を完全に鵜呑みにし、調子に乗りすぎたぼく。

当時は今ほどまだシニアリーグって有名ではなくて、ぼくの生まれ育った静岡県でも本当に数チームしかなかったんです。

地元の掛川市から電車に乗って30分、さらにバスに乗って30分かけて、浜松市のシニアリーグに通うことになりました。

が!

幸か不幸か、地元で鼻高々だったぼくの鼻は入団早々にへし折られます。

当時ピッチャーをやっていたぼくは、豪速球とは言わないけど、そこそこ速いボールが投げられると思っていました。

少なくとも地元では。

でも、飛び込んだチーム内では…

くっそおせーww

しまいには男子の成長期中学時代は思うように背が伸びず、中学三年にもなって、二個下の一年生たちからも見下ろされるくらいぼくの体は、名門チームでやっていくには弱すぎました。

そして迎えた高校受験シーズン。

ここでぼくは人生の中でもかなり大きな後悔を二回もします。

挑戦することすらできなかった高校受験

一個目の挫折

所属していたシニアリーグでは、早々にポジションを変え内野手になり、自分たちの代になってからようやく三塁コーチャーの座を勝ち取ることができ、控え番号で引退まで過ごしました。

3学年で多分90人弱くらいいた大所帯で、全国大会にも出れたことから、「控え選手でも背番号を勝ち取った選手ならほしい」と言ってくれる高校がいくつかあって、その中の一つに勉強も野球も力を入れている学校がありました。

「ここだ!」

と思って、監督にお願いしに行くと「お!お前もそこ行くか?ってことはウチからはお前と○○かな」と。

何とそこには、ぼくと同じポジションでレギュラーで出ていたキャプテンも進学希望を出していたのです。

(う…あいつも行くのか…これじゃまた3年間必死こいても控え選手で終わってしまう…)

そう思ったぼくは、自力で地元の古豪を受験すると監督に伝え、推薦の話を取り下げてもらいました。

二個目の挫折

野球推薦の話がなくなり、自力で地元の名門校を受験することになったのですが、ちょっとやそっとじゃ受からんぞ〜と子どもながらに思っていました。

なんせ、中途半端に勉強ができたので、今の自分では微妙に届かなそうな学力の学校だったのです。

とにかく、やるしかない。

そう思って、受験勉強に明け暮れました。

そしていよいよ願書を提出し、当日までのラストスパート…と思いきや。

不安の波が押し寄せてくる。

(落ちたらどうしよう)

落ちた時のことを考えました。

公立高校の受験に落ちたら、併願した私立に行くことになります。

その私立の野球部には…

  • 中学時代に苦手だった先輩がいる!!!!
  • 絶対また一緒に野球やりたくない
  • 絶対に落ちれない
  • …自信ない

という良くないイメージが先行し、ビビるにビビったぼくは挑戦することなく一度提出した願書を取り下げ、学力も野球もレベルを下げて隣の高校を受験したのでした。

挑戦しなかった自分を攻め続けた高校時代

高校入学が決まると、死に物狂いで挑戦をした同級生たちの合格を耳にします。

ぼくがビビって受けられなかった掛川西高は、地元でも人気の学校。高校生活が始まると、熾烈な受験戦争を乗り越えて胸を張って西高に通う同級生たちを、どこかまっすぐ見れないぼくがいたんです。

それが死ぬほど悔しかった。

そして…

そこそこ勉強ができたぼくも、高校最初の中間テストみたいなので真剣に0点をとりました。

0点って…のび太くらいしかとるやついないと思っていたけど、ここにもいた。

なんか、西高の同級生たちはイキイキして見えたし、自分は一気に落ちこぼれたし、気持ちの糸が切れて勉強することをやめました。

授業中は基本的に筋トレとかスポーツ栄養に関する本読み漁って、成績は悪くていいから赤点や追試にならないギリギリをすり抜けて。(追試になると練習にいけないので)

そうやって過ぎ去っていった高校生活。

たまたま練習が早く終わった日に、センバツ甲子園を見たら…

ぼくが一個目の挫折をした高校がセンバツに出場していて、そして、中学時代にぼくを差し置いて試合に出ていたキャプテンが、甲子園の土を踏んでいました。

そして、今や世界的にも有名なダルビッシュ投手から、痛烈なツーベースを放ったあいつ。

なんか、知らない間に泣いていました。

もしかしたら

この場面でダルビッシュと勝負したのは自分だったかもしれない。

ダルビッシュと勝負しても三振したかもしれない。

その高校に入っても変わらず補欠だったかもしれない。

でも、ぼくはそれすらしなかった。

挑むことすら。

自分が行きたいと思った学校を、自分より野球がうまい同級生がいるという理由で諦め。

その次に行きたい学校も、落ちたら会いたくない先輩がいるって理由で諦めた。

近所では、隣の名門校に通う同級生を見て悔しがり。

テレビの中では、甲子園で活躍しているかつてのチームメイトの姿を見て悔しがり。

なんなんだ自分。

ずっとこうやって、誰かと自分を勝手に比べ、勝負もしないうちから勝手に白旗あげて。

お前には無理だと言われたら、俺には無理かと思い。

遠くから、あいつはいいな。すごいなって眺めているだけの人生なのか。

この人生はぼくのもののはずなのに、ぼくは全然、ぼくの人生を生きていなかった。

まとめ

そのセンバツを見た日に決めたことがある。

もう絶対に、自分で決めたことをやらずに終わらせるのはやめる。

やってみてダメでもいいじゃないか。

やってみて思ってたと違ってもいいじゃないか。

やりたいくせにやってみもせず、やっているヤツら、うまくいってそうなヤツらを眺めて羨ましがることはやめようと。

そう自分と約束をした。

つづく

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