カンボジアに建設した小学校に誰かが立ち入り物がなくなったことから感じたこと

三週間の日本滞在を終えて久しぶりにみらいスクールに行ったら…

荒れたみらいスクール

荒れすぎだろ。閉めたはずの窓が開いているし、先生用の椅子が変な角度で生徒用の机に埋まっているし、壊れたマジックやビリビリに破かれたノートが散乱している。タバコの吸い殻も落ちてるし飲み食いしたゴミも落ちている。どうなってるんだ一体。

そして、差し入れでもらったティーボール用のバットが二本無くなっていた。なんで?日本帰る前日までは確かにあったのに。動画にも映っているのに。

ティーボールセット

カンボジアでの野球プロジェクトはティーボールから始めた

物がなくなったことに気づいた経緯とその後のこと

いつものように日曜日の日本語教室を終えた後、子ども達がティーボールをやりたいというのでいろいろ収納しているロッカーのある教室へ行ったら先ほどの荒れ模様。ここで初めてバットがないことに気がつきました。

近所の子どもが持ち出している疑惑

子ども達が「〇〇の家に行ったらあるかもしれない」というので行ってみたら、壊れたから捨てたと言われました。なんなの。捨てたも何もなんで持ち帰ってんだって話です。そしてなぜ誰の家にあるか一発で見当がつくんだい、君たち。

過去の事例

以前もいろんな人がサッカーボール、バレーボール、フリスビー、けん玉などみんなで遊べるものを差し入れてくれましたが絶対誰かが知らない間に持ち帰ります。言い訳はいつもこんな感じ。

  • 持ち帰ったのは私じゃない
  • 壊したのは私じゃない
  • 無くしたのは私じゃない

じゃ、誰なんだ?で一斉に黙ります。今回も例に漏れず同じ。

そして、しばらくして、ほとぼりが冷めかけた頃、毎回同じセリフが聞こえます。

「ユスケ、ボール買って」

ふざけるな

カンボジアに建設した小学校と関わり続けること

で、こういうことがあっても結局誰が犯人とか原因を追求するわけでもないので、多分ですがまたいつか同じことが繰り返されます。無くなる「物」が変わるだけ。

見返り求めてやっているわけではないけど、良かれと思ってやった行為はあっけなく打ち砕かれることが多い。

誰かを喜ばせたいとは?

  • 花を植えれば「きれい」と言って引き抜いて持ち帰る人がいる
  • ぬかるみに砂利をまけば自分の家の前のぬかるみに砂利を移動させる人がいる
  • 買い物を頼めば渡したお金を全額使い切って食べきれないほど買ってくるし、余ったからと言って自分の家に持ち帰る人がいる

「人を喜ばせたい」と「自分の思い通りにしたい」は別なのにたまに混同する。多分みんな、自分がしたことで喜んでいるけど自分の思い通りじゃないからイラッとするだけなんですよね。

想うと勝手に理想の結果を期待する

  • 花を植えたら喜んでくれるけど、持ち帰って欲しくはない
  • 砂利を巻いたら道が綺麗になるけど、持ち帰って欲しくはない
  • みんなで美味しいご飯を食べたいけど、食べきれる分だけにしてほしい

純粋に「人のため」にやったはずなのに、報われない瞬間だと思ってしまう。それは自分が「こうあってほしい」と勝手に期待をしているから。勝手に期待するから思い通りに行かないと「裏切られた…」とか見当違いな発想に繋がったりする。

理想の実現

人生も多分同じで報われる瞬間の方が少ない。

毎日全てが思い通りでハッピーならそれはそれで幸せの不感症になるだろうし、希望の見えない苦労の連続もまぁまぁ辛い。こういう「自分の意思に基づく行動」と目の前で起きる「思い通りにならない現象」の積み重ねの先にしか、理想の実現はありえないのだと思います。

ただ、そこで理想の実現を一度味わってしまうと、いろいろ苦労したことも忘れてまたのめり込んでしまうので一種の麻薬みたいなものですね。

今回感じたことのまとめ

想像つく方もいるかもしれませんが、昔のぼくならここで怒りの感情がこみ上げてきて、子どもら泣くまで怒鳴り散らして、説教の嵐でしたね。

あと、自分のたかが30なにがしの人生と偏った価値観を語って、さも自分が正しいかのように、人のミスを咎めまくり、わからせて教育してやった気になっていたと思います。

自分の中の正解を押し付けない

でも、そういうことはもうやめました。意味ない。いや意味ないことはないかもしれないけど、方法としては正しくない。

ただ、やってることはおかしいとは思いますよ。無断で人のもの持ち出して捨てるんだから。どうかしてるぜってレベル。でもそれもあくまでぼくの判断基準の中での話。

もし仮に村人全員が「(持ち出して捨てたからって)だから何か?」と言い出せば、ここのコミュニティでの正解はそういうことなのです。「人のものを勝手に持ち出しちゃいけないんだぞ」って一個人がわめいたって世界は簡単に変わりません。「俺の言ってることが100%正しい!!!」とか言い合ってもキリないし何の正義でもない。

自分が教えなくてもいつかどこかで勝手に学ぶ

子どものしたことだろ。気に止めるなよ。いやいやイカンことは教えなきゃいかん?そもそもそのイカンは誰が決めたの。多分それは生きていく過程で勝手に知るよ。今じゃなくても。俺じゃなくても。今日の出来事は必ずどこかで活きると信じている。

勝手にバットを持ち出したこと、わざわざ、今、ぼくが追求しなくても犯人探ししなくても、本人は多分今色々感じている…はず。

感情を無駄に動かされない

あと、持ち出されたくなければ持ち出されない努力を自分ですればいいだけ。そして同じことを他人にも求めないで暮らす。それが一番自分の心に沿って生きている気がするのです。人のやったことでネガティブな感情の動かされ方したくない。ぼくの感情はぼくが決める。

さいごに

バット含めこれまでいろいろ差し入れてくれた方達には申し訳ない。粗末にしている気はないんです。でも、これもまた世界のリアルの一つ。そう思って引き続き温かく見守ってくれると助かります。

学校のない村に学校建てたら、子ども達みんな目キラキラさせて通うかって言ったらそんなことないです。

子ども達のこと思って何か施しをしたって、それがそのまま大切にされ続けることもないです。

ぼくだって、今までなんどもいろんな人の気持ちや施しを置き去りにしていることあるから。

だからまた明日からも、ぼくはぼくにできることを当たり前に積み上げていきます。こんなことでダメだ疲れたもうやめたってなるほどのことじゃないので。自分が勝手に首突っ込んだことなので。我慢強く、辛抱強く、温かい目で、長い目で見守る。それを継続する。短気な野郎の修行はまだまだ続く。

ということで、今日も元気に生きています。カンボジアまで実際の様子を見に遊びに来てください。なんちゃってでやってることじゃないとわかってもらえると思います。

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