みらいスクールを見に行きたいと言ってくれた二人。
日曜日は学校が休みで、授業見学もできないし、子ども達とも会えるわけではない。
それを伝えても「何か手伝えることがあるなら言ってください。」と。
せっかくなので校庭に散らかるゴミ拾いを一緒にお願いすることにしました。
誰もいない静かな学校で黙々とゴミを拾い続けてくれたしょーへーとなおちゃん。
本当にありがとう。
言葉で人は動かない
ゴミ拾いすら定着したようでしていなくて、自分たちが必要だと思うことの価値を伝えるには、自分の姿で見せ続けて出口の光を見せないことには人は簡単には変わらないのだと感じます。
こうしてブログでも日々言葉を並べているけど、言葉で人を動かすことはできなくて、動かすことができるとしたら、それは心。
そして、言葉に対する行動がもっと一致したら、もう少しだけ人の心を動かすこともできるのかなと。
必要だ、意味がある、価値がある。
それが伝わるまで、信じて向き合う。
それしかぼくには手法がないです。
だから、自分が何かできたとか、何かしてあげたとか本当にどうでもよくて、自分の存在がその人たちに必要なら伝わるまで動くしかないのだと思います。
見えないところで動いてくれている人たち
「カンボジアで何かしたいです」
という問い合わせはよくいただきます。
みらいスクールを見に来たいという方の中にも「みらいスクールで何かしたい」という想いを持たれている方は多いです。
ただ、公立学校として成り立っている以上、ぼくらが授業内で何かをするということはありません。
また、授業外であっても別記事で書いたように出口の見えない活動は取り入れていません。
参考記事:元体育教師のぼくがカンボジアの小学校で運動会を行わない理由
ぼくらが何かをするための学校でも、お手伝いに来てくれた人たちに何かをしてもらうための場所でもありません。
あくまで子ども達の教育環境を守るために、そしてその先の未来を守るために今やれることをやっています。
その活動の一つが、今日はたまたまゴミ拾いでした。
ボランティアってなんだ?
雨上がりのドロドロの校庭で一切文句を言わずに、ゴミ拾いをしてくれた今日の二人。
「子ども達と遊べないなら・・・」
「日本語とか英語を教える時間とかないなら・・・」
そのような理由で「来ない」という選択をされる人たちも多い中、仕事なんて選ばず、自分のやりたいことなんて求めず、ぼくが子どもたちにとって必要だと思うことを一緒になってやってくれました。
急に来た人の「やってみたい」を叶える場所ではないから、本当に必要なことを信じて一緒にやってくれる。
これが本当のボランティアなのかなと思います。
結局そんなことを3人でやっていたら、子ども達が遊びに来ていつも通り「お絵かきをしたい」と言いだしました。
しばらくその様子を見守っていると、掃除に来てくれた二人の姿を見たからなのか、いつも以上に片付けに気を使って教室を後にする子ども達。
こうやって、一緒になって必要だと思うことをやっていくことが、地味で効果が見えにくくて時に遠回りに思えても、確実な方法なのだと思います。
もともとそこになかった文化や風習なのだから、伝わりきらないことがあって当たり前。
それでも必要なことだと信じているから、ぼくらはこれからも行動していくしか道はないんです。
例え明日からまた子ども達がゴミをポイ捨てし始めても、今日何かを感じて少しだけ行動を変えてみたこと自体、二人が来てくれた意味がありました。
まとめ
教員時代、毎朝正門の掃除をしながら生徒を迎え入れていた頃のことを思い出しました。
「掃除しろ」
「汚すな」
そんな言葉で注意はできても、本質は変わらない。
必要だと思うことをやり続けて、たった1人だけでもその子の人生にとって良いきっかけを与えることができたらいいのかなって思います。
掃除の意味、大切さを知って以来、雨の日も寒い冬の日も、卒業式の朝まで一緒になって掃除をやりきった子が、当時一人だけいました。
教育に関わるってそれくらい根気が必要で、成果が即効性として見えないことだらけ。
地道な積み重ねが、後に大きな差になって返ってくる、のかもしれない。
やったことの見返りなんて期待せず、自分が信じたことをひたむきに続けていこうと思います。
ゴミ拾いすら伝えられないのに、もっと大きなこと伝えられるはずがないから。
追伸
昨年の開校式で、前田さんが買ってくれたゴミ拾い用のトングとかホウキやちりとり。いまだ健在です、ありがとうございます。
みらいスクール2年目のシーズンを迎える前に環境整備を行います。
みらいスクールの水不足を改善するために、井戸掘りと水道の設置を行う予定です。
工期は現在相談中。
決まり次第、現地で汗かいてくれる方の受け入れ募集します。
詳しくはこちらをお読みください>>>
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