言いたいこと全てタイトルで言い切ってし合っていますが、よかったら読んでってください。この記事を書くきっかけになったのは「カンボジア語ができなくてもカンボジアでビジネスができる」っていうセリフを聞いたから。まぁそうかもしれないけどそんな誤解を生むようなことをわざわざ大きな声で言わなくても良くない?って思ったのでちょっと書きました。
できないよりできた方がいいに決まってる
カンボジア語が話せなくても確かにカンボジアでビジネスはできると思います。通訳さんとか一緒に働くパートナーに語学が堪能な方がいればお願いすればいいので。
だからカンボジアで働くために、カンボジア語が話せなくても始められるし、話せなくてもなんとかなるかもしれないけどそのままでいいとは思わない。
できないよりできた方がいい
冒頭のセリフはもしかしたら「カンボジアは言葉通じなくても簡単らしいよ〜」って誤解を生むことにもなりかねないからあえて言おう。カンボジア語は話せないより話せた方が、読み書きできないよりできた方がいいに決まってる。地球が誕生する前から決まってます。
考えたらすぐわかる
あなたが一緒に働く人を選ぶ立場の時に能力が同じだけど日本語が話せる外国人と話せない外国人ならどっちがいいですか?話せた方が良くないですか?
「ゆーすけクメール語はどのくらい話せるの〜?」
そういうスキル的なこともよく聞かれます。
ただ、スキルってのは追い求めてもキリのないものの一つであると思っていて。
その中でも 「言語」ってのは本当に追求することに終わりがないものです。
ぼくも胸張って「クメール語話せます」ってレベルでないことは重々承知です。
でも、それは誰かと競うものでもないし、自分が必要だと思うレベルを追求して行くことは、どこまで行っても必要なのだと思います。
- ちょっとした挨拶ができる
- レストランとかで注文ができる
- 自分の意思が相手に伝わる
- 相手が何を言おうとしているかわかる
- 相手と意見交換ができる
- 通訳レベル
本当、どこのレベルにいたらいいとかダメとかそんなことが言いたいのではなく。
ただ、学ぶ努力もしないくせに「話せないんだよね〜」ってそりゃそうだろって思うわけで。
そうじゃなくて「話す気ありません、覚える気ありません」って言った方が、はっきりしていてぼくは好きです。
やったってできるかわからないけどやらなきゃできるはずがない
例えばカフェもそう。
美味しいコーヒーの淹れ方は、知っていても何かが違う時がある。
カップに氷入れてコーヒー流し込んだらいいかってことでもないし、それにミルクを足したらラテになるかって言うとそれも違う。
本当に美味しい淹れ方は勉強しなきゃわからないし、勉強したことは自分ができるようになるまで練習あるのみだし、そうやって繰り返しやって行く中で「感覚」とか「勘」ってのは次第に研ぎ澄まされていく。
それを知っているだけでもできないし、自分ができないことで胸張って仕事ができるかって言うとやっぱりぼくはそこも嫌なんです。
そんなんで人からお金をもらうなんてもっと無理。
誰でも最初は初心者なのに
初心者とか立ち上げの時って、すごくラッキーだと思うんです。
ただでさえ、話題性だけである程度人は来てくれるし、うまくいかないことがあっても目をつぶってもらえるチャンスがあるから。
でも、それは本当に最初の最初だけで、もしかしたらそれすらするされない時だってあるかもしれない。
なのに、そこに甘えて「あ、ここまではいいんだ」って自分の当たり前の基準が下がっていくと、そんな店やスタッフに魅力はないしお客さんは次第に来なくなる。
逆に行ったら、初心者の時の猶予期間があってそこで学ぶことをしなかったら、リスクしかないですよね。
時間が経つほどに周囲からは「できて当たり前」という求められるハードルが上がってくるのに。
最初に学ぶことを習慣にしなかったおかげで、時間が経ってもできないことが山積みのまま。
仕事ってそんな甘くないのに。
何故か根拠もなくできる気になっている。
オープンしたてのサービス案件が、自分の実力だと思っている。
痛すぎる。
社会に貢献できないものは仕事じゃないし、そこには人もお金も集まらない
自分が提供できるものが、少なからず社会に貢献するからそれは初めて「仕事」になる。
社会に貢献できるって大きく聞こえるけど、掘り下げていけば簡単で「目の前の人たちをどうやって喜ばすか」。
だからわかりやすく言えば、「コーヒーが飲みたい人に美味しいコーヒーを提供すること」がぼくらの仕事だし、それはさっきも書いたように、マシンを押したら出てくる黒っぽい液体をカップに移し変えているだけではないです。
それを追求することがぼくらの仕事。
そうやって追い求めることをしなくなった人から、ロボットに仕事奪われるって最近よく言われる事態になるんでしょうね。お疲れっす。
はっきり言えばコーヒーの淹れ方覚えたら、その作業事態なら誰でもできます。
でも、ウチで飲みたくなり理由を追求しなかったら、そのためにやることやらなかったら、あっさり潰れていくでしょう。
学ぶことはやめたくない
最近で言えばぼくはクメール語も、コーヒーの勉強も、それ以外にもいろんなことを主体的に学んでいます。
それは全部自分のため。
今の自分には満足できるはずもないし、学びに終わりはないから。
だから「コーヒーの味が・・・」って言われたら余計悔しくて、もっと知りたくなるし。
勉強したはずのクメール語が伝わらなかったら、もっと学びたくなる。
Webデザインのこと、カメラのこと、文章の書き方、英語とか。
学ぶことがとてつもなく楽しいし、その成果は自分に返ってくるってわかっているから。
“現時点”で見る自分は大したことなくても、昨日より今日の自分が、今日より明日の自分が確実にレベルアップしてればそれでいい。
やることやってもないくせに、目標だけ大きいとか。
やることやってもないくせに、できませんとか。
やることやってもないくせに、うまくいかないことばかりとか。
もうそう言うのやめにした方がいいですよ。
今日のまとめ
やることやってないのにできるようになるわけない。
どこまでできるようになりたいかは自分の心次第で簡単にゴールが決まる。
以上っす。
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