「価値のあることは言葉にできる」
文章というものを仕事にしてから、伝えたいことを伝わるように適切に言葉にする、ということを繰り返し行ってきました。
もちろん、それはブログを運営したり、何か人に価値を提供するために必要なことでもあるのですが、そればっかりではないな、むしろ言葉にできない(しない)方がいいのかも、と思うようなこともあるのだと思いました。
海外で生活をしていると「なんでカンボジアなんですか?」「きっかけは何だったんですか?」とよく聞かれます。
これは、ぼくだけでなく多くの海外在住者が聞かれることではないでしょうか?
そこに明確な理由や目的がある人もいれば、結構曖昧で「なんとなく」という回答をする人もいる。
どちらがいい悪いではなくて、言葉にできた方がいいものと、言葉にできなくてもいいものがあるのだと最近は感じるようになりました。
言葉は時に人格を形成する
本題の前に、言葉の持つ力について話しておきたいと思います。
言葉ってのは力を持っていて、人を元気にしたり勇気付けたりすることもあれば、簡単に傷つけたりすることもできます。
時間の使い方くらい意識したいのが言葉の使い方。
ヒトとして言語をもって生まれることができたのだから、その言語は人を傷つけたり不快にさせたり見下したりするために使う必要はなくて。せっかくなら少しでも場を明るくしたり人に元気を与える使い方した方が自分も相手も気持ちがいい。— YUSUKE KITAGAWA (@yusukeworld_) 2017年11月27日
よく「人を動かす言葉」という人がいますが、正式には言葉は「人を動かす」のではなく、「人の心」を動かしているのです。
何か言ったところで、最終的にやるかやらないかを決めているのは結局本人なので。
だからこそ、元気を与えるのも不快にさせるのも、相手の心を動かしているだけです。
感情もそうですが、それは時に相手の人格を変えるような影響を与えることもあります。
「ゆーすけって〇〇だよね」
って言われて
「あ、そうかも」
と感じれば、人は自然とそうなろうとします。
自分の心が納得すればするほど、言われた自分像に近づこうとします。良くも悪くも。
それは「理不尽を許さない脳の構造」がそうさせていて、人から何か言われるとその理由を無意識に脳が探し始めるからです。
そこで自分を変えることができたと思える人もいれば、それはただ相手に言われた自分を演じていただけで、後々無理が生じてくることもあります。
それだけ、言葉というものは人の心に影響を与える力を持っているということです。
期待に答えようとそれっぽいことを考え始める
先ほどの人格の話に似ていますが、海外にいる理由もそうで
「なんでカンボジアなんですか?」
と聞いてくる人は「カンボジアにいるそれっぽい理由」を求めてきます。
その人の話を聞きたいと思っていればいるほど、勝手に期待値のハードルが上がって、相手の言葉に感動したいと思っている。
ところが「いや、特にこれといって深い理由なんてないんだよね」と言われることもある訳で、素直に返答した相手の表情が気になると、次からはそれっぽい理由を探したりします。
本当は自分はそんなこと思ってもいないのに、相手が満足するような回答を求めるようになる。
その結果、自分で話している回答に違和感を感じ始めて「あれ?結局俺はカンボジアに来て何がしたいんだっけ?」という自問自答を始めるようになります。
自分の思った通り回答をしたら相手は満足せず、自分の心の声ではなく相手の満足度を高める返事を探すから、自分のやりたいことや目的が不明確になったりしてしまうんです。
答えが見えたら終わってしまうかもしれない
実際ぼくもそうで、「何でカンボジアなんですか?」って言われても、教員辞めようとした時に校長室で浮かんだ言葉が「カンボジア」だっただけ。
そこに深い理由はなく、本当になんとなくです。
ただ、言ってしまった以上一度は訪れてみようと思ったカンボジアで、ぼくは多くの出会いと体験と発見があり、結果としてカンボジアはぼくの仕事場でもあり生活の場にもなっています。
カンボジアに来てみて取り組んだこと一つ一つに理由はあっても、何でカンボジアなのか?は今でも不明確なまま。
きっとそれは東京だろうが、大阪だろうが、地元の静岡であろうが、そこにいる理由って大して重要でなくて、そこで何をしたいか?どんなことを考えているのか?の方が大切だと思っています。
もし、ぼくが「カンボジアに小学校を建設したい」っていう理由だけで初めから来ていたら「カンボジアの小学校建設」が完結した時点で、もう来ない理由が一つできてしまうことにもなります。
それだけではないいろんな要因が複雑に絡み合っているからこそ、そこにい続ける理由は明確にはなりにくく、逆に明確にならないからこそ価値を持っているのだとも思うのです。
少し前にこんな記事を書きました。
関連記事:その国が好きだから行くのは勝手だけど嫌いになったら帰るってどうなのよ?
理由が感情だけで決まっていると、その感情の振れ幅で「大切なものも場所も人も簡単に変わってしまう」という内容の記事です。
カンボジアという国が、その街で暮らす人たちが好きというのも、確かに理由の一つかもしれませんが、当然人と人の付き合いだし、それも自分が生まれ育って慣れ親しんだ街とは少し違う環境にいるからこそ、嫌な部分だって当然見ることになります。
それを見て、感じて、それでも残る理由は単純に好きとか嫌いと言った「感情」ではない要因が存在しているのです。
人間関係で言えば、
「なんでその彼女(彼氏)と付き合っているの?」
と聞かれて、付き合っている理由が全て明確に言葉にできてしまったら、同じ要素を持っている他の人でもいいということにもなると思うのです。
まとめ
そう考えるとどうしてそこにいるか?なんて理由はどうでもよくて、来るきっかけ以上に残る理由は様々で複雑だと思うのです。
矛盾していることをあえて言いますが、だけど実は答えはシンプルで「いたいからいる」だけだということです。
そこにいる理由を探し切ってしまうと、その理由を埋められる他の場所は他にも存在するかもしれないし、理由が見つからなければ帰るという選択肢が生まれます。
人を満足させる「それっぽい理由」はないけど、そこにいたいからいる。
それが全てだし、それでいいのだと思います。
ぼくらは生活する場所を選ぶことができる自由を持っています。
自らの意思によって今ここにいる訳なので、無理して人にわかってもらおうとしなくても、それだけで十分なのだと。
コメントを残す