海外生活ときどき旅。7年目4カ国。

カンボジアで起きた日本人による強盗殺人事件から感じたこと

ぼくが住んでいるカンボジアのシェムリアップ近郊で、日本人二人がカンボジア人のタクシードライバーを殺害した事件について。

日本でもだいぶニュースになっているみたいなので詳細は省きます。

ぼくが今回言いたいことはそこじゃない。

 

SNSなどのコメントをみていると

「日本の恥」

「クソみたいなやつら」

「どんな人生歩んで来たらそんな考えになるんだ」

「同じ日本人としてごめんなさい」

みたいな言葉があるのがぼくの感じる違和感。

 

なんでそんなみんなして、加害者を叩くの?

なんでそんなみんなして、責任を背負えるの?

 

加害者だからって誹謗中傷は言っていいのか?問題

まずそもそもとして、犯罪はダメ。

だけど犯罪を犯した人の人格や人生を批判する権利なんて、誰にもない。

 

明日は我が身ではないけど。

誰だっていつだって、意図しなかったとしても、加害者側になる可能性は持っている。

 

もし自分の大切な人が加害者になってしまったら、同じような言葉が出せますか?

出せないなら、知らない誰かにも言わないべきなんじゃないかな〜とぼくは思うわけです。

 

罪の大きさに関わらず、犯罪はダメですよ。

でもね、犯罪者を裁くのはぼくら市民がSNSで声を上げなくても、法律が裁くから。

別に容疑者の肩なんて持たないけど、相手が犯罪者だからって感情を表現するために使う言葉は何を使ってもいいわけじゃないと思うんです。

 

「同じ日本人として…」なんなの?問題

それから。

「同じ日本人として」ってくくりだけで、なんだか急に責任を感じることも違和感だなぁと。

 

「同じ日本人としてごめんなさい」って。

毎回海外で日本人が何か問題起こしたら、毎回その責任を感じるんでしょうか。

 

今回の被害者の男性には奥さんと四人の子供がいる。

確かに日本のような保証制度が整っていないから、生命保険などの死亡保障もないんだろうけど。

だからと言って、日本人が海外で何かしたら、毎回その責任を感じるんですか?

「同じ日本人として」毎回何か行動するんですか?

 

もし被害者がとんでもない悪党でも、同じ日本人が命を奪ったら、今回と同じ気持ちになれるんでしょうか。

相手が誰であろうと、奪われて誰も悲しまない命なんてないよね。

でも人によって行動が変わるなら、その行動こそ人一人の命を軽視してんじゃないの?って思います。

 

ぼくは、同じカンボジアに住みながら、ぼくと同じ日本人がこのような残念な犯罪を犯した今、悲しいなって気持ちはあるけれど、被害者の人たち知らないから心から慰めることなんてできないし、容疑者のことも知らないから彼らへも怒りとか憎しみなんてわかない。容疑者たちはむしろ不憫に思うくらい。

 

「今自分にできることをする」

そう決めて動く人の行動に不正解はないんだろうし、行動をしていない人が行動した人のことを正しいか間違っているかを評論するのもおかしな話。

でも、今後同じような出来事がおきてしまったら、その度に今日と同じ行動が取れないなら今もするべきじゃない。

これがぼくの持論です。

 

さいごに

ちょっと話が変わるけど。

先月日本に久しぶりに帰っていましたが、テレビからは毎日誰かが誰かを殺したニュースが飛び込んで来ます。

当事者以外からしたら、それって日本のどこかで起きている悲しいニュースの一つになっていませんか?

ぼくはなっています。ぶっちゃけ。

 

今回、カンボジアで日本人がカンボジア人を殺しました。

それは、自分が住んでいる、住んだことがある、旅行したことがある国で、自分と同じ日本人が犯罪を犯すというタイトル的に稀なニュースだから、今回余計に重く感じるんだろうな。

 

誰が誰を殺めても、同じ命であることに変わりはないのに。

聞こえ方によって、自分の受け止め方や行動が変わる。

それがぼくにとっては嫌なだけ。

 

カンボジアではSNSなどを通じて、日本以上に細かな情報が出回ります。

今回も遺族に支援金を渡した人たちがいて、その様子はSNSで公開されて奥さんやお子さんたちの顔まで公開されていました。

現金なのか手形なのかわかりませんが、封筒を手渡している写真とかも。

 

それもいろんな意見があるかと思いますが、ぼくは被害者遺族の情報が公開されていることへは個人的には加担したくないので見える形の支援は行ないませんでした。

それよりも、今ここでかわらず日本人として生かされていることに感謝をしながら、カンボジアという国で生きる人々のためにできる恩返しをしていこうと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。