カンボジアの小学校建設に関しては、賛否両論が比較的はっきり分かれ、時に物議を醸すこともあります。
「カンボジアには支援が必要です」という人がいれば「カンボジアに支援は必要ない」と言い出す人もいます。
そんなことまで想定して、「カンボジアには支援が必要な地域もあれば、必要ない地域もあります」なんて言ったところで、それはもはや発信する価値のない言葉の羅列になります。
今回は、実際にカンボジアに小学校を建設した経験を踏まえて、その必要性について再度考えてみたいと思います。
カンボジアの小学校建設は必要なのか?
自分がやった手前ということもありますが、カンボジアの小学校建設は必要だと思います。
しかし、必要性を肯定するに当たり、いくつか考えておかなくてはいけないことがあるとも思っています。
学校がない地域があるなら
学校がない村や学校に通いたくても通えない子どもたちがいるという事実があるのであれば、建設する意義はあると思います。
事実として、学校のない地域に学校が立つわけなのでプラスの効果が期待できますよね。
ないのなら通うことはできないけど、あれば通う可能性が出てきます。
あくまで可能性。
学校が足りない→建設したらいい→子どもたちが勉強する という方程式の嘘
小学校が足りないだけだから、建設さえすれば子ども達がみんな通う様になる、という安易な結果ではないということも理解しておく必要があります。
実際に近所に小学校があっても、通っていない子ども達もまた多くいます。
ではなぜ、学校に通わない子ども達は存在するのかというと親の価値観もその要因の一つですよね。
子どもの価値観の多くは親や大人で決まる
カンボジアの子どもに限らず日本で育ったぼくらもそうですが、両親の存在があるからこそ今ぼくらはここに存在しています。
「人は他の動物に比べて非常に未熟な存在で生まれてくる」とよく言われますが、生まれてきた赤ん坊が自立するまでにはかなりの月日がかかります。
その中で親を中心とした様々な人に助けられ、学校や社会の中で集団に揉まれ、徐々に人格は形成されていきますが、ベースにあるのはやはり親が強いでしょう。
その親が、子どもに何を伝えるか?
これは非常に大きな影響をもたらします。
小学校に通う必要を感じる大人と感じない大人
学校に通わない理由には親がいない、お金がないから働く、など外的要因ももちろんありますが、わかりやすく親がいる前提で話を進めます。
実際に、両親が健全で近くに小学校がない、とある村の家族のお話です。
事例の一つ
ある家族の両親は、自分たちが学校に通えなかったこともあり、子ども達には学校に通って勉強をしてもらいたいと思っています。
その為には子どもを村から出し、学校のある近くの孤児院に入居させて1日3食のご飯を保証し、勉強する機会を与えています。
離れて暮らすのは寂しいけど、子どもの将来のためにはこれが幸せだと判断しています。
もう一つの事例
また別の家族の両親の話です。
家族は一緒にいるべきものだと考えているため、子どもを無理して学校に通わせません。
学歴がなくても村の中で自給自足をし、だいたいなんでも自分で作り、直せるから困ることはありません。
生きていく術を家庭生活を通じて子ども達に教えていきます。
毎食家族でそろってご飯を食べることが幸せだと感じているからです。
もし、村に学校がなくても村の大人がこう言った考えなら学校は不要と言われるかもしれませんね。
価値観の違いを押し付けることができない
どちらの方が幸せか?という議論がしたいのではありません。
ましてやどちらが正解とか、正しいとか、そんなこと僕らの物差しで図れることでは到底ありません。
ただ分かっているのは、どちらの家族の両親も子どもの幸せを願っているということです。
家族で一緒にいることに幸せを感じている人たちに、離れた町の学校に行かせることはできないし、教育の機会を与えたい親に、もっと子どもと一緒にいなさいというのもおかしな話でしょう。
だからこそ学校建設によって救われる人たちもいますが、学校に通うことだけが全てではないという価値観にも触れておく必要があります。
カンボジアに小学校を建てるなら考えておく必要があること
現にぼく自身も視察の途中、実際に建設した村以外の村では「学校はいらない」と言っている村民にも出会いましたし、「学校建てるなら、村に金払え」という謎の要求を受けたこともありました。
それでも村人が望むのであれば、そこに尽力したいと思うのであれば、建てるべきだと思います。
建設資金はどうするのか?
ぼくは、一切の費用を自分で稼いだお金でやる!と豪語していましたが、無理でした。
なのでCAMPFIREのクラウドファンディングサービスを活用し、300万円を超える支援を受けることができました。
クラウドファンディングに関しては別で書いてますので、そちらを見ていただきたいですが、社会的に意義のある行動に誰もが賛同してくれるかといえば、そうではありません。
自分にとって価値を見出してても、他人が価値を見出せるかは別問題だからです。
結局、やりたいことをやるための資金繰りが大きな課題となってきます。
学校の所有者はどうするのか?
「所有者?」という人も多いかと思いますが、わかりやすくいえば公立か私立かということです。
運営や教師の雇用や、教師の給料まで何から何まで自分でやる!というのであれば、私立学校として、自分が所有者で行えます。
ちなみにぼくは、建設前に教育省に提出する「建設許可」と一緒に、公立学校として認可してもらうための手続きもしました。
なので、開校後は郡の教育省のものとなり、教師も派遣され、運営はカンボジアの教育省によって行われる様になります。
余談:クメール語の把握
こういった申請書類とかも割と労力がかかります。
実績やコネクションのあるNPO/NGOならともかく、個人でやると大分しんどいです。
代行してくれるサービスもあるみたいですが、マージンが発生しますし、何よりクメール語は何書いてあるのか全くわからないので、本当にサインしていいのか不安になることが何度もありました。
継続的な関わりと、数年先のビジョンは?
公立学校の場合は建設したらほぼ役割は終了するので、後のことは行政にお任せすればいいのですが個人的に心配もあります。
新規で小学校を建設する予算のない国が、ぼくら外国人の建設した小学校の補修や改築などが必要になった際に予算を組んでくれるのか?ということです
どれだけしっかり作っても、結局は人工物なので、消耗もするし、破損も出てきます。
- 壁が壊れた
- 屋根が雨漏りする
- 窓がなくなった
ありとあらゆる先のトラブルを想定して、ぼくは今後後方支援をしていこうと思っています。
追記:後々やったこと
まとめ
カンボジアの小学校建設の必要性と、それに関して考えなくてはいけないことを書き連ねてきました。
まとめとして考えておきたいことは
- 建設のニーズの有無
- 村長や村人の意向
- 建設資金
- 運営体制や継続性など
を考慮して、それでも必要性があるのなら建設は意味を持つと思います。
無いから建てた。
建てたのに通わない。
それも結果としてあるかもしれませんが、できれば避けたい。
学校建設はあなたのためではなく、学校を望む村の人たちためですから。
そして、本当に支援を必要としている場所はあるはずですので、まずは自分の目で見て判断する方がいいですね。
自分で見もしないで「カンボジアに学校建設は必要ない」という発言は「ドラえもんがいたら何したいか」くらい意味のない発言だと思います。
カンボジアの学校建設に関連する記事
学校建設中の様子。みらいスクール建設101日間の記録。
学校建設始まりから開校までをざっくり知れる記事。
やってみてよかったなあって思ったこと。
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